2021年シーズンのスーパーフォーミュラを圧倒的な強さで制したのは、TEAM MUGENの野尻智紀だった。これまで長きに渡って日本のレース界の最前線で戦ってきた野尻だが、意外にも彼の最後の“全日本タイトル”は15年前の全日本カート選手権まで遡る。

 野尻はスーパーフォーミュラでのタイトルを決めた後の会見でも、「これまで良い走りをすることが少なく、劣等感のようなものを感じていた」と話していた。その劣等感の中でもがき苦しんできたレース人生について、彼に話を聞いた。

 1989年、茨城県で生を受けた野尻。控え目な性格で、人と関わることが苦手だったこともあり、学生時代はクラスの中心となるような快活な人たちを羨ましく思うこともあったという。そんな中で野尻が熱中したのがカート。決して目立ちたがりではないものの、人一倍負けず嫌いだった野尻にとって、そこで結果を残し、“一番”になることで自身の心を満たしていた。

 野尻は2006年に全日本カートのチャンピオンまで登りつめ、翌2007年には名門トニーカートの誘いでイタリアに渡り、ヨーロッパでレースを戦った。しかし、前述の通り控え目で内気な性格の野尻にとって、この1年間は精神的に厳しいものとなった。ライバルと遜色ない速さを見せることもあったが、精神面を安定させられず、速さを結果に繋げることができなかった。

「当時の自分が未熟すぎたこともあり、ひとりで海外で生活をすることが苦しかったです」

 野尻はそう振り返る。

「ただでさえ内気で控え目な性格だったので、コミュニケーションもなかなか築けませんでした。向こうの人たちが何かを言っていると『悪口を言われているんじゃないか』という被害妄想のようなものを感じる時もありました。それでさらに塞ぎ込んでしまい、レースでも結果を残せず……という感じで1年が終わってしまいました」

 苦しんだ1年を経て、野尻は日本に帰国。休学していた高校も、中退することを決断した。

「これは両親にも話していませんが、年下の人たちと仲良くなれる気がしませんでした。これも僕の性格の問題なのですが……」

「ただでさえヨーロッパで被害妄想をしてしまっていた中で、年下の人とうまくやっていけるのか……そういうことばかり考えていました。それで『高校はやめていいんじゃないか』と思ったんです。高卒の資格はいつでも取れますから」

 その後、野尻のレース人生は再び軌道に乗りはじめる。2008年はSFS-F(鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ)を首席で卒業し、2009年は若手ドライバーの登竜門、フォーミュラ・チャレンジ・ジャパン(FCJ)への参戦をスタート。1年目の成績はランキング5位で、本人も「2年目に希望が持てる成績」と感じていた。

 しかしながら、2年目も変わらずランキング5位。翌2011年から全日本F3(現スーパーフォーミュラ・ライツ)にステップアップするも、3シーズンを戦いタイトルには届かなかった。

 この頃から野尻は、年々“劣等感”を感じていくようになる。カートから4輪への走りのアジャストに苦労したこともあり、カート時代の武器だった速さが発揮できず。当時ホンダの若手育成を担うHFDP RACINGでの厳しい指導についていけなかったことも、彼のメンタルに追い討ちをかけた。

「心も折れていました」と語る野尻。さらにこう続けた。

「皆さんがアドバイスをくれても、それができない……『才能ないのかな』と思いました。たくさんの方の協力でここまでやってこれていると思っていたので、自分からレースを辞めるとはなかなか言えませんでしたが、しょっちゅう(辞めたいと)思っていました」

「心が折れた時に『苦しすぎて辞めたい』と思い、次のレースまでのインターバルで『いや、やっぱりやらなきゃダメだ』と思い、今週こそ強い気持ちで戦おうと思ってレースに臨んでも、なかなか結果を残せず……その繰り返しでした」

「今考えると、プロとしてのパフォーマンスの出し方や振る舞いなど、ごく当然のことを言われていましたが、当時の未熟な僕にとってはすごく厳しく感じてしまいました」

「プロまであと一歩というF3の世界では、より厳しさをもって接しないといけないことは、SRSで育成のお仕事に携わらせてもらっている今になってよく分かります。あの時もう少ししっかりしていたら、と思います。怒られたこともたくさんありますが、今思えばそれは幸せなことで、エネルギーを無駄にさせてしまったのではないかと、申し訳なく思います」

「ホンダさんに対しても、これまでの結果でよくチャンスをもらえたなと、客観的に思いますし、何を評価してここまでチャンスをいただけたかという点は、自分でもよく分かりません」と控え目に語る野尻だが、苦しい状況の中でも腐らずに前を向き続けたという自負は持っている。その踏ん張りが、少しずつ実を結んでいく。

 HFDP RACINGを離れ、TODA RACINGへと環境を変えて心機一転臨んだ2013年シーズン。F3で3年目、しかも育成の旗頭であるチームから離れたシーズンということもあり、本人も「これがラストチャンス」という意識でより一層気合いが入っていたという。

「(2013年シーズンには)今までのアドバイスがちょっとずつ噛み合ってきました。その頃には、これまで何を教わってきていたのかを本当の意味で理解できるようになり、『フォーミュラでも速く走れるかも』という期待が膨らんでいました」

 環境を変えたこと、そしてラストチャンスだというプレッシャーがプラスに働いたこともあってか、同年の野尻はHFDP RACINGのドライバーふたり(松下信治、清原章太)を共に上回る成績を残し、ランキング4位に。翌年からスーパーフォーミュラにステップアップする切符を手にした。王座を獲得するのはまだ先の話だが、一流ドライバーの仲間入りに向けて着実なステップを踏んだ。(次回へ続く)