戦前の教育指針だった教育勅語。道徳の基本を教えるとともに、天皇の臣民としての務めを求め、軍国主義を支える役割を担った。戦後72年の今年、学校法人「森友学園」問題などで、勅語がにわかに注目を集める。勅語の時代の学校はどんな雰囲気だったのか。当時を知る人々を訪ねた。(角田支局・会田正宣)


 仙台空襲から72年を迎えた7月上旬、仙台市戦災復興記念館で戦災復興展が開かれた。空襲を体験した青葉区の広瀬喜美子さん(84)が、昔の遊びコーナーで高校生にお手玉やけん玉を教えていた。
 広瀬さんの家は空襲による焼失を免れたが、避難者があふれて防空壕(ごう)に入れず、桜の木に隠れて震えて過ごした。「沖縄の地上戦の惨状を知らされないまま、本土決戦だと思っていた。空襲で戦争の恐ろしさが分かった」と振り返る。

◎賛美歌など禁止

 広瀬さんは教育勅語を教わった片平丁国民学校から1945年春、宮城高等女学校(現在の宮城学院中・高)に進んだ。ミッションスクールの入学式でも、勅語が朗読された。礼拝や賛美歌は、交戦国の「敵性文化」として禁じられた。
 8月15日、自宅のラジオで敗戦を告げる玉音放送を聞いた。父は終戦を喜んだが、居合わせた高校生のいとこは「これから戦場に行って、天皇陛下のために頑張るつもりだったのに」と泣き崩れた。
 広瀬さんは「当時の日本人にとって天皇は神様だった。勅語で教育され、皇室のいる宮城に向かっての遙拝(ようはい)などが徹底された。洗脳されていた」と話す。
 青葉区の元高校教諭今野敏さん(85)も空襲を受けた。近所の女性が、腹部から弾丸が突き出たまま亡くなっているのを目撃した。火葬場への道に遺体が累々と横たわり、ハエが飛び交っていた。その羽音が今も耳にこびりついている。
 今野さんは荒町国民学校5年のとき、勅語が朗読されているさなかに隣の子とふざけてけんかし、げんこつを食らって講堂の外に出されたことがある。
 とはいえ、典型的な軍国少年だった。仙台の第二師団司令部に小遣いを寄付し、陸軍大臣東条英機と海軍大臣嶋田繁太郎名の感謝状をもらった。
 神風特攻隊に感激した今野さん。「『後に続く者を信ず』と言った先輩の後に続きます」と作文に書き、卒業式で紹介された。直後、陸軍航空隊に所属した親戚が台湾沖で散った。

◎戦前回帰のよう

 戦後の中学の恩師の影響で、今野さんは日本史の教員になった。教育の力を知るだけに、「道徳は日常生活で学ぶもの。上から押し付けるような勅語を、再び教育現場に持ち込むのは間違いだ」と訴える。
 今野さんは危惧する。「勅語や『共謀罪』法(改正組織犯罪処罰法)の成立など、安倍晋三首相の政治は戦前に回帰するようだ。将来、言論や思想の自由が奪われる時代になってしまわないか」

<仙台空襲>1945年7月10日午前0時すぎから約2時間半、仙台市中心部に約120機の米軍機B29が焼夷(しょうい)弾約1万3000発を投下。死者1064人、負傷者1683人。約500ヘクタールが焼け野原となった。