戦前の教育指針だった教育勅語。道徳の基本を教えるとともに、天皇の臣民としての務めを求め、軍国主義を支える役割を担った。戦後72年の今年、学校法人「森友学園」問題などで、勅語がにわかに注目を集める。勅語の時代の学校はどんな雰囲気だったのか。当時を知る人々を訪ねた。(角田支局・会田正宣)


 夏空の下、山の斜面に牧草地や飼料用のトウモロコシ畑が広がる。蔵王町北原尾。太平洋戦争の敗戦で、西太平洋の島国パラオから日本に引き揚げた人々が入植した。「北のパラオ」の意を込めた開拓地だ。
 地区入り口に「行幸啓記念碑」が立つ。天皇、皇后両陛下が戦後70年の2015年6月、北原尾を訪問された。両陛下はその2カ月前、旧日本軍の約1万人が玉砕したパラオのペリリュー島を訪れ、戦没者を追悼した。
 両陛下に面会した吉田智(さとし)さん(84)は「にこやかで、親しみやすいお方だった」と印象を語った。

◎「現人神」に緊張

 吉田さんはパラオから引き揚げ後、千葉県の一時収容施設で、昭和天皇に面会したことがある。「緊張した。昔は天皇は現人神(あらひとがみ)、姿を見ただけで目がつぶれると思っていた」と振り返る。戦前の国家元首から戦後の象徴天皇へ、時代の変遷を実感する。
 吉田さんは小学2年のとき、一家でパラオ本島の大和村に入植した。ジャングルで終戦を迎えた。
 日本から約3500キロ離れたパラオでも、教育の中心は教育勅語だった。毎朝のように、背筋をぴんと伸ばして暗唱させられた。
 天皇を「赤子(せきし)」である臣民が慕い、天皇が臣民を慈しむ。天皇中心の家族国家観に立った勅語は、道徳とともに、国のために身をささげることを教えた。
 吉田さんは6人きょうだいのうち弟と妹の2人を、米軍機の機銃掃射で亡くした。炊事で煙を上げてしまったためだ。動くものは何でも撃たれた。吉田さんは「『天皇陛下、万歳』と言って死ぬよう教えられたが、『天皇陛下』と口にした人は見掛けなかった。みんな家族のことだった」と証言する。
 象徴天皇として即位した今の天皇陛下は、象徴の在り方を模索されてきた。被災地で膝をついて被災者を見舞う姿は、その表れだ。平和への思いも深い。

◎両陛下も望まず

 パラオ本島の隣、コロール島にいた北原尾の佐崎美加子さん(85)も、両陛下に面会した一人。皇后陛下に「大変でしたね」、天皇陛下に「ご苦労さまでした」と声を掛けられたという佐崎さんは「お優しかった」と思い起こす。
 佐崎さんも小学生のとき、勅語を暗唱させられた。勅語が朗読された式典が終わると、紅白のまんじゅうが配られた覚えがある。
 佐崎さんは「残酷な戦争は、二度としてはいけない。勅語も含めて昔のような時代に戻ることを、両陛下は望んでいないでしょう」としみじみ語る。