芥川龍之介は、1916年12月から1919年3月まで、横須賀の海軍機関学校で嘱託教官として勤務していた。『蜜柑(みかん)』はその頃の短篇で、実際に横須賀線に乗っていて、これに近い体験をしたのかもしれない。主人公も芥川本人と重なって見える。 列車に乗る芥川というと、岡本かの子の『鶴は病みき』が思い出される。1923年の夏、鎌倉で芥川(作中では麻川荘之介)と一緒に過ごした記憶を中心とする短篇で、5年後、主人公は、熱海に向かう列車の中で偶然、芥川と再会するのだが、その「病魔」に蝕(むしば)まれた無残な姿に衝撃を受ける。短いながらも強烈な描写で、この『蜜柑』の主人公の末路のように、私の脳裏を過(よ)ぎった。 『蜜柑』執筆時、芥川は27歳だったが、その筆は非常に達者である。冒頭の「後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。」という気怠(けだる)い一文などは、漱石にも鷗外にもなかった表現だろう。 最晩年の『或阿呆の一生』の中で、芥川は、「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない。」という有名な警句を遺(のこ)しているが、『蜜柑』の構成は、古典に取材しつつ、近代的な自我を主題とした作品群で華々しくデビューした彼が、芸術至上主義的な作風の幾篇かを書いた後、結局、人生に呑(の)み込まれながら自壊してゆく、まさにその狭間(はざま)の時期ならではと感じられる。 主人公は、貧しく不潔で、愚鈍な向かいの少女を、彼の見たくない「卑俗な現実」そのもののように感じ、不快に思う。酷(ひど)い言い草だが、芥川は芥川なりに、自然主義者とは立場を異にしながら、こういう人間の心情を現実として書く必要を信じていた。 この後、トンネルの件を挟んで、主人公の少女への感情は怒りに近いものとなるが、直後に唐突に訪れる結末は、その美しさで読者の胸を強く打つ。どこか印象派のようなマチエールの筆致で、それが作者の中にある素朴なやさしさを感じさせ、読者をほっとさせる。それにしても、こんなふうに美によって、彼の宿痾(しゅくあ)のようなニヒリズムを退け、現実との和解を模索する作風が、その後もあり得たのではないかと、改めて考えてしまう。 物語の結末は異なるが、個人と現実との相克が、柑橘(かんきつ)類の単純で力強い色かたちに圧縮され、解消される瞬間という着想は、この6年後に発表された梶井基次郎の『檸檬』を思い出させる。敢(あ)えて影響関係は論じないが、併せて読む意味を感じる。文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さん、ロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。※次回は10月1日、田中慎弥さん。