美観地区の鶴形山周辺には、観龍寺(かんりゅうじ)や阿智神社(あちじんじゃ)などの多くの寺社仏閣があります。

浄土宗(じょうどしゅう)佛光山成親院(ぶっこうざん なりちかいん)誓願寺(せいがんじ)は、もともと恵心僧都(えしんそうず)源信(げんしん)ゆかりの天台宗の寺院として、平安中期頃に開かれたと伝えられるほど、歴史のある寺院です。

また平安末期におこった鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)により、流罪(るざい)となった藤原成親(ふじわらのなりちか)が、誓願寺に逗留(とうりゅう)したとの伝承もあります。

倉敷でも平安時代の歴史を伝えるスポット・誓願寺を紹介します。

誓願寺は、観光地ではないため、敷地内や本堂などに入れません。
この記事を通して、普段見られない誓願寺を楽しんでください。

誓願寺ご本尊
誓願寺ご本尊

誓願寺とは

誓願寺は、倉敷本通り商店街の中にあり、倉敷美観地区の北側にある鶴形山のふもとに鎮座します。

誓願寺

誓願寺の山号は「佛光山(ぶっこうざん)」、院号は、「成親院(なりちかいん)」、宗派は浄土宗(じょうどしゅう)鎮西派(ちんぜいは)知恩院末(ちおんいんまつ)です。

「山号(さんごう)」
仏教の寺院に付ける称号。その寺院が所在する山の名を山号とする場合と、所在とは関係のない仏教用語を付けることがあります。

「院号(いんごう)」
平安時代以降に、皇族が門跡となっている寺院などに対して許されたものです。

古くは鶴形山のふもと、現在の阿智神社西参道入口あたりのヌメリ岩の角にあったと伝えられています。

ヌメリ岩については、倉敷本通り商店街にる「ラ・パン 倉敷店」の横にある説明板を読んでみてください。

▼誓願寺の鴫谷真策(しぎたに しんさく)住職に、誓願寺の本堂や敷地内の案内や歴史などについて教えてもらいました。

誓願寺 鴫谷真策住職
誓願寺 鴫谷真策住職

誓願寺の見どころ

誓願寺の敷地は、山門のある入口から覗いただけでは、想像できないほど広大です。

鴫谷住職により、本堂や山門、飛梅天満宮などの歴史的な建造物やご本尊なども案内してもらいました。

▼墓所にあがるときの1コマ。
まず、見事な花梨(かりん)の木に目がいきます。

誓願寺 カリンの木

本堂

山門を入って正面に築400年の本堂(ほんどう)があり、本堂の右手に玄関と庫裏(くり)があります。

山門が開いていれば、門から本堂を眺められるのです。

本堂に向かって左手には えんま堂や墓所および鐘楼、右手には飛梅天満宮があります。

正面に本堂、右手に玄関と庫裏
正面に本堂、右手に玄関と庫裏

▼「菊の御紋」などの欄干彫刻に加えて、曲線で造られた屋根や右手の入口の木造建築も素晴らしい造りですね。

誓願寺 本堂玄関

本堂前を左手に進み墓地の間を少しあがるだけで景色が変わります。

本堂の大きさを感じられるうえ、美観地区がすぐそこです。

近くに旧倉敷郵便局(現株式会社三楽)。その奥には旧中国銀行(現大原美術館新児島館)を見られます。

誓願寺からの風景

ご本尊

静寂で澄んだ空気感のある本堂の中央に、誓願寺のご本尊である阿弥陀如来が安置されています。

凛とした存在感のあるご本尊と対面すると、思わず息を呑んでしまうほどの感動がありました。

ご本尊が安置される内陣(ないじん)の左右にある脇陣には、浄土六祖立像(じょうどろくそりゅうぞう)が祀られています。

誓願寺 ご本尊 阿弥陀如来
誓願寺 ご本尊 阿弥陀如来

阿弥陀如来は、「私の名前を唱える人は必ず救う」という誓いをたてており、人間が死んだとき「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば、極楽浄土に迎え来るといわれています。

誓願寺の阿弥陀如来は、「来迎印(らいこういん)」(人差し指で輪をつくり、右手をあげて左手をさげる)を結んでおり、この印相には、「すべての人びとを救う」という意味も込められているそうです。

また、阿弥陀如来が安置されている高さ3メートルある厨子(ずし)の扉裏には、「二十五菩薩来迎の図(にじゅうごぼさつ らいこうのず)」が繊細に美しく描かれています。

阿弥陀如来坐像

続いて、外陣(げじん)後方から内陣を眺めると、内陣と外陣の境界を示す木の結界が目に入ります。

▼鴫谷住職によると「この結界は一般的な浄土宗の配置ではなく、確証はないのですが、前身の天台宗時代の名残ではないでしょうか」とのこと。

誓願寺 本堂 内陣

浄土六祖立像(じょうどろくそりゅうぞう)

御本尊の脇陣に安置されている浄土六祖立像は、いずれも繊細な姿で彫られ鮮やかな色で装飾されています。

そのため、著名な仏師の作と推測されていますが、詳細については不明です。

鴫谷住職と浄土六祖立像
鴫谷住職と浄土六祖立像

▼内陣の左手の脇陣には、右手より法然上人、聖光上人良忠上人の3上人が祀られています。

法然上人、聖光上人、良忠上人

▼右手の脇陣には、右手より曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導大師の3師が祀られているのです。

曇鸞大師、道綽禅師、善導大師

山門と獅子

誓願寺 山門

誓願寺の山門を、普段見られない敷地内から撮影しています。

注目してほしいのは、屋根の四つ隅に配置された獅子の像。

実は、表と裏の獅子でデザインが異なります。

敷地内の獅子は座っているのですが、本町通の獅子は後ろ足を頭近くまで上げた跳ね獅子となっているのです。

鴫谷住職の話では、「躍動感のある獅子と座った獅子で、動と静を表現し、本町通側と敷地側のそれぞれで、阿吽(あうん)になっています。

また左右も口の開閉で阿吽をあらわし、二重に示しています。

狛犬(こまいぬ)とよく間違えられますが獅子です」とのこと。

説明がなければ狛犬と獅子の違いにも気が付けませんね。

筆者自身、狛犬と思い込んでいました。

▼本町通側の右手の跳ね獅子(阿形)

誓願寺 跳ね獅子

▼寺側からむかって左手の座っている獅子(吽形)

誓願寺 獅子

えんま堂

山門を入って左手にえんま堂があります。

誓願寺 えんま堂

▼鴫谷住職は以下のように話していました。

「過去には、えんま堂の2階の倉庫に保管されていたえんま様と十王像を、師である私の父が現在のように安置しなおしました。実は、十王像については、なぜか十一像あり、なぜ十一像あるのかいまだに不明です」

誓願寺 えんま様と十一像

竜宮門と水澤家の歴代墓所

誓願寺の墓所のなかでも、もっとも奥まった高い場所に「水澤家の墓所」とその入口に「竜宮門」があります。

墓所の入口にさえ、このように見事な竜宮門が建造されており、当時の栄華がしのばれますね。

水澤家(井筒屋)は、江戸時代初期の倉敷における豪商として有名な13軒の内の1軒。かつては酒津のほうまで土地があったとのことです。
寛政(1700年代の終わり)から文政(1800年代の始まり)の頃には、備中のなかでの一番の富豪となっていました。
現在の倉敷民藝館の建物は、明治中頃まで水澤家の屋敷の土蔵です。

竜宮門

▼手入れが行き届き、整然と並ぶ水澤家墓所。

備中のなかでも栄華を極めた水澤家の歴代の墓が、誓願寺の墓所にあることからも、誓願寺が古くから格式のある寺であることがわかります。

水澤家墓所

飛梅天満宮(拝殿・本殿)

山門を入り右手に飛梅天満宮があります。

▼飛梅天満宮(拝殿)。

飛梅天満宮 拝殿

拝殿の前の狛犬には、代官古橋新左衛門の元締手附字佐美律右衛門の名が刻まれており、天保2年(1831年)4月に、宇佐美が寄進したものです。

▼飛梅天満宮(本殿)。

飛梅天満宮 本殿

こちらの本殿は、八幡宮に関係の深いが彫られていることが特徴です。

また本殿の両脇にある燈籠(とうろう)は、文政10年(1827年)8月に、代官大草太郎右馬とその息子の太郎左衛門が寄進しています。

鐘楼(しょうろう)

墓地の中の少し高台に2階だての鐘楼があります。

こちらの鐘は、戦時中に供出し失われていた時期もありましたが、昭和55年(1980年)に鐘を新調し落慶した鐘楼です。

鐘楼

▼鐘楼の奥からみえる景色も絶景です。

鐘楼からの景色

少し上がるだけで、倉敷市役所や遠く児島半島まで見渡せます。

また、美観地区らしい蔵屋敷も間近に眺められますね。

瓦紋

誓願寺の山門などの瓦紋には、華頂宮法親王(かちょうのみやはっしんのう)から特別に使用することを許されたと伝わる「菊花紋」が刻まれています。

瓦紋 菊花紋

ぜひ、山門の瓦紋を見てみてください。

由緒正しき寺であることがうかがえます。

▼本堂などの屋根瓦の瓦紋には、誓願寺の「」の字が。

瓦紋 誓

瓦を修復した時代ごとに、「誓」の字体が異なりバラバラになっていましたが、最近の修築で統一しているとのことです。

▼敷地内にこれまでの瓦紋が集められています。

瓦紋

時代ごとに異なる「誓」の字や「菊花紋」にさえもさまざまなデザインがあることが面白いですね。

▼山門を入り本堂にむかう参道にも、実は古い瓦が活用されています。鴫谷住職のお母さんが活用されたとのこと。

誓願寺 参道

藤原成親に由来する観世音菩薩

▼平安時代末期に藤原成親により納めたとされる観世音菩薩が安置されています。

観世音菩薩

誓願寺の歴史

誓願寺は、平安中期頃に開かれた歴史あるお寺です。誓願寺の主な歴史について紹介します。

時期出来事
平安中期頃恵心僧都ゆかりの天台宗の寺院として創建される
平安末期藤原成親が平家滅亡の陰謀が発覚した「獅子ヶ谷の変」により、京都から備前児島へ配流の途中で、誓願寺に逗留したとの伝承あり。その際、観世音菩薩の像を納めたとのこと
応永31年(1424年)第一世 善慶上人 この地に来て、浄土宗の念仏道場として開山
天正8年(1580年)第五世 安楽庵策伝上人(落語の祖)により中興
※安楽庵策伝上人は後に京都浄土宗西山深草派総本山誓願寺の法主になる。
江戸初期 元和期知恩院より委嘱された第六世 随公(ずいこう)上人により中興
江戸時代第九世 本誉還悦(げんえつ)上人が知恩院第三十八世玄誉萬無(まんむ)上人の直弟子だったことから、備中国を代表する浄土宗の触頭(ふれがしら)役の寺院として尊崇
江戸時代 中ごろ
第十五世 性誉雲海(れいかい)上人の代
華頂宮法親王(かちょうのみやほうしんのう)からも代々寵遇(ちょうぐう)を受け、「菊の御紋」をはじめ、「紫の幕」や「金襴の御袈裟」が下肢(かし)され、これらを永代使用することが許されている。
嘉永2年(1849年)本堂改築

続いて、住職・鴫谷真策(しぎたに しんさく)さんにインタビューをしました。