先入観にとらわれず、来た道を引き返す覚悟があれば、全く違った結論に達していたかもしれない。そう思わせる本に出会った。警視庁捜査1課管理官、理事官を務めた原雄一氏のノンフィクション「宿命」(講談社)。国松孝次・警察庁長官銃撃事件の捜査に携わった自身の経験をベースに「後世に残す記録」を書き上げた。世を震撼させた事件からすでに23年、公訴時効の成立から8年。捜査を主導した警視庁公安部は「オウム真理教が組織的に行ったテロ」と断定したが、刑事部捜査1課は、教団とは全く関係のない服役中の男に注目していた。当時取り調べを担当した原氏に聞き、それまでの捜査の経緯を振り返った。(共同通信=柴田友明)

 ▽舞台裏を語る理由

 ―後世の記録として残そうとした思いを聞きたい。

 「(男は)別事件の捜査から浮上してきた人物です。捜査を続けるとだんだんと容疑性が増してくる。オウム真理教の犯行であるという警視庁の公式的な見解があったので、一部の幹部しか知らない存在でした。いずれ事件を検証するときに、こんな捜査をしていたと大勢の人が分かるように記録を残したい。そう思いました。この男の捜査にかかわっていない刑事部の幹部が公的な場で(事実と)全く違うことを話しているのを聞いて、これはまずいと感じていました。(2年前に)退職してからたくさんの人に取材を受けました。記者、ジャーナリストが事件を独自に書こうとしていた。中には知識が薄い人もいた。中途半端な内容が世に出るくらいなら、自分で書いてしまおうと考えました」

 

 ―反響はいかがでしたか。

 「マスコミがざわついていますね。一般読者の方から、多数、温かいハガキをいただいています。OBを始めとして、公安部、刑事部でも賞賛・激励してくれる人はいますが、中には、おもしろくないと思う方もいらっしゃるでしょう。でも、いずれ、書き残した真意を理解してくれるときがくると信じています。私自身としては克明に詳細に書いたという意識はありません。『今まで知らなかったことが分かった』という声を聞きます」

 ▽いきさつ

 長官銃撃事件は1995年3月20日の地下鉄サリン事件の10日後に起きた。オウム真理教への強制捜査のさなか、警察組織のトップである国松氏が東京都荒川区の自宅マンション前で狙撃されてひん死の重傷を負った。教団関連の捜査に刑事部が大量の捜査員を投入していたため、南千住署に置かれた特別捜査本部の主力は公安部が担った。断片的な事実を積み重ねて事件の真相に迫る刑事部のアプローチと違って、言わば「見込み捜査」によって対象者と事件を結びつける公安部が前面に出たことが、その後の捜査の流れを決めた。

 96年10月中旬、警視庁の記者クラブ各社に長官銃撃の犯人はオウム真理教信者の「警視庁警察官」という内容の告発文書が届いた。「ばかなガセだ」。警視庁、警察庁幹部はすぐ全否定したが、まもなく、信者だった警視庁巡査長(当時)が「自分が長官を撃った」と供述、公安部が極秘に捜査を進めていた事実が報道された。

 供述の真偽はともかく、警察庁上層部は、内部告発とみられる文書が出回りメディアの取材を受けるまで報告を上げてこなかった警視庁に強い不信感を抱いた。捜査を指揮していた警視庁公安部長は更迭。警察庁の杉田和博警備局長(現内閣官房副長官)は10月末の国会で、警視総監が5月初めには報告を受けていたとした上で「警察庁への報告は10月15日。重大なだけに、できるだけ早く報告すべき事案だった」と警視庁の判断に誤りがあったとの見解を示した。警視総監も11月に辞任した。

 当時、捜査1課担当の記者だった筆者の目には、すさまじい暴風に耐えた警視庁庁舎が足元を揺らす地震で一瞬、屋台骨がきしんだように見えた。教団への本格捜査から1年半余りが過ぎていた。

 ▽別の男

 その後の状況は共同通信が配信した特集記事「表層深層」の見出しをたどるとイメージできる。「虚実交じる供述で翻弄 立件見送りから逮捕に7年」(2004年7月7日)、「『敗北』か、『光明は』…威信かけた警視庁捜査」(04年7月28日)、「『指揮方針』に怨嗟の声 警察組織、迷走の15年」(10年3月29日)。最初は元巡査長を「実行犯」として取り調べ、04年には銃撃の「支援役」として殺人未遂容疑で逮捕したものの、供述内容が変わり不起訴に終わる。再び「実行犯」として事件の構図を構成しようと試みる。そんな繰り返しの末、時効を迎えたのだった。

 捜査が15年間なぜ結実しなかったのか、その理由の一つとして経過を取り上げた。冒頭紹介した原雄一氏が取り調べたのは、別の捜査線上に浮かんだ男である。

 2002年11月、名古屋市西区で現金輸送車を襲い、警備員に拳銃を発砲して大けがを負わせ強盗殺人未遂容疑で逮捕されたのは当時72歳の男だった。自動式と回転式の2丁の拳銃を所持、かつらやマスクで変装、身長を高く見せる「シークレットブーツ」を履き、靴底をボンドで塗り、足跡を消すような工夫をしていた。

 高齢ながら、手慣れた準備と大胆な犯行。1956年に警察官を射殺して服役、76年に仮出所した後、足取りはほぼ空白だった。02年の逮捕後に、東京都新宿区の貸金庫などからサブマシンガンを含む銃14丁と大量の銃弾が見つかり、東大中退という経歴とともに男の数奇な人生に関心が集まった。

 関係先から長官銃撃事件についての記事のスクラップブック、国松長官の私邸までの地図、警察幹部の写真など膨大な資料が押収された。銃撃事件の翌月にフロッピーディスクに「轟然火を吐く銃口に 抗争久し 積年の 敵(かたき)の首領倒れたり」と、事件を連想させる詩を書き込んでいたことも確認された。08年、「長官を狙撃したのは私です。暗殺する目的で狙撃しました」と、男は供述調書の作成に応じ、原氏が所属する刑事部捜査1課と南千住署の特捜本部に従事する公安部の捜査員で構成する特命捜査班が編成された。

 “オウムありき”迷走捜査の検証(2)に続く