80年代には50%、20年前の00年代でも30%程度のシェアがあった日本の半導体が、いまでは7%にまで落ち込み、代わるように台頭したのが韓国のサムスン電子でした。この30年ほどの間に何が起きたのでしょうか。今回のメルマガ『大村大次郎の本音で役に立つ税金情報』で、元国税調査官で作家の大村大次郎さんは、日本の半導体凋落がアメリカの圧力に屈した「日米半導体協定」から始まったと解説。加えて、先端技術の流出を許す日本企業の「脇の甘さ」を象徴する出来事があったと詳しく伝えています。

なぜ日本は半導体のシェアを韓国に奪われたのか?

前回まで、日本企業はアジア諸国に安易に工場を移転し、それが技術流出を招き、日本経済停滞の一因になったということをご紹介しました。今回からその点について少し踏み込んだお話をしたいと思います。

韓国との経済関係についてです。日本人は、韓国のことをまだ日本より遅れていると思っています。しかし、かつて日本が世界シェアの多くを占めてた電化製品の分野で、韓国企業が凌駕するようになった経緯は、前回述べました。

韓国が、日本のシェアを奪ったのは家電ばかりではありません。半導体、造船など、日本の得意芸とされてきた分野を次々に侵食しているのです。

なぜ韓国が日本の得意分野を侵食しているかというと、最大の理由は、技術の流出です。日本は、技術の流出という点についてあまりにも無防備であり、逆に韓国は技術を模倣するのが非常にうまいのです。

2019年7月に、日本政府が安全保障を理由として、韓国向けのフッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の輸出審査を厳格化することなどを発表したとき、韓国側は国中が大騒ぎとなりました。この事態を見て、「あまりにも日本への対応がひどすぎたからだ」「まだまだ韓国は科学技術では日本には追い付けない」と溜飲を下げた人も多かったはずです。

しかし、だからといって、では日本は安心かというと決してそうではありません。韓国の「模倣技術」は、相当なものがあるからです。韓国は科学分野でのノーベル賞を取ったことがありません。そういう国が、世界の家電や半導体において、これほどのシェアを獲得するということは逆に驚異的なことです。

韓国の驚異的な「模倣技術」

嫌韓派の人たちは、韓国のことを「模倣国家」だと非難します。しかし、韓国はこの「模倣技術」によって、世界有数の工業輸出国になったわけです。模倣と言われようがどうしようが、日本から様々な分野でシェアを奪ってきたのは事実なのです。だから、「加工材料の分野ではまだ日本には追い付けない」と安心することはできないのです。

韓国企業が日本企業の得意分野を奪う典型的な例を半導体分野に見ることができます。日本の半導体産業というのは、かつては日本の輸出の主力商品でした。1980年代には、半導体の巨人だったアメリカを凌ぎ、世界シェアの50%を超えたこともあったのです。

しかし今では韓国のサムスン電子が世界シェアのトップであり、韓国の輸出全体の20%を占めるほどになっています。完全に韓国の主産業となっているのです。

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この半導体産業にこそ、韓国の模倣技術の高さと日本の脇の甘さが、如実に表れています。韓国の半導体業界は、日本の半導体技術を模倣し、日本のシェアを奪うことで発展してきました。

半導体の勢力図を見ると、20年前からアメリカが世界シェアのだいたい50%を占めており、それは今でも変わりません。が、20年前には、30%程度のシェアを持っていた日本は、今ではわずか7%にまで落ち込んでいます。その一方、20年前はほとんどシェアを持っていなかった韓国が20%を超えるシェアを持つようになったのです。

日本と韓国は、半導体の種類や製造過程が似ています。そして日本とアメリカでは、半導体の種類や製造過程があまり似ていません。つまり、韓国の半導体は、明白にアメリカではなく日本の持っていたシェアを奪うことによって発展しているのです。

半導体産業凋落のきっかけ

日本の半導体産業の凋落は、1986年に結ばれた「日米半導体協定」から始まりました。1980年代、日本がアメリカから世界の半導体シェアを奪っていったことで、アメリカは日本に強力な圧力をかけるようになりました。

そして日本に対して「安全保障上の問題がある」と威嚇し、アメリカ市場へのこれ以上の参入を妨害しはじめのです。日本はアメリカの圧力に屈し、半導体取引において自主規制をすることになりました。それが「日米半導体協定」だったのです。

この日米半導体協定では、「日本はなるべくアメリカ製の半導体を購入すること」など決められましたが、日本はこれを「努力目標」とするだけで、具体的な数値などは定めませんでした。アメリカはこの日本の態度に業を煮やし、日米半導体協定締結の1年後に、3億ドルの報復関税を実施しました。日本製のテレビやパソコンなどに100%の高関税を課したのです。

アメリカのこのやり方は、最近、中国のファーウェイ製品などを締め出したのと同様です。日本は、アメリカの強硬姿勢に屈し、仕方なく半導体の輸出を控えるようになりました。その結果、日本の半導体シェアは見る間に落ちていったのです。

1990年代に入ると、日本の半導体産業のシェアは大きく落ち込み、技術力でもアメリカに後れをとるようになっていました。メーカーとしても輸出を増やせないので、それほど技術開発や設備投資をするわけにもいかなかったからです。

そして、1990年代半ばには、アメリカにとって日本の半導体産業はそれほど脅威ではなくなっていました。またパソコンのシステムソフトのWINDOWSの開発などにより、必要とされる半導体の種類が大きく変わり、日本の半導体メーカーたちは大規模なリストラを迫られることになりました。

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日本は半導体の技術を韓国に丸々提供した

こうした過程の間隙を縫って、台頭してきたのが韓国のサムスン電子なのです。当初、日本はサムスン電子のことなど、まったく眼中に置いていませんでした。「サムスン電子が日本やアメリカの半導体技術に追いつくにはまだ時間がかかるだろう」と踏んでいたのです。

現代日本の「高純度フッ化水素」などの技術と同様の意識を持っていたのです。そのため日本企業は愚かなことに、サムスン電子に大っぴらに技術提供さえしていたのです。

1996年に、日本は国内の主要な半導体メーカーが集まって、半導体先端テクノロジーズ(Selete)という研究開発企業を起ち上げました。メーカー各社が独自に研究するのは開発費のコストがかかりすぎるということで、通産省が音頭をとり、日本の半導体産業を復権させるために、企業の垣根を超えて協力し合おうということになったのです。

この半導体先端テクノロジーズ(Selete)当時の日本の半導体の主要メーカーだった、東芝、ソニー、シャープ、富士通、日立、松下、三菱電機、NEC、沖電気、サンヨーの10社が、5億円ずつ均等出資することによって設立されました。各企業の研究者、技術者が一か所に集まり共同研究開発を行う、という「日本の半導体技術のすべてが結集された企業」だったのです。

が、信じがたいことに、この半導体先端テクノロジーズ(Selete)には、その後、なぜか韓国のサムスン電子が「研究開発委託」という形で参加したのです。なぜ日本国内メーカーの競争力を高めるために、日本の技術の粋を集めてつくった研究企業に他国の企業を参加させたのでしょうか?

日本企業としては、下請け企業としてサムスン電子を使おうと考えていたのですが、サムスン電子は日本企業が思っている以上に技術模倣が進んでおり、日本企業が設備投資に躊躇している間に大掛かりな設備投資を行い、あっという間に日本企業を追い越してしまったのです。

お人よしにもほどがある、ということです。「ひさしを貸して母屋を取られる」とはまさにこのことです。またこのことは、当時の日本企業がいかに、韓国企業を甘く見すぎていたかということでもあります。日本企業の脇の甘さを象徴しているといえます。

この半導体先端テクノロジーズ(Selete)への参加が、サムスン電子にとって大きな飛躍のきっかけになったことは間違いないのです。次回は、韓国の産業スパイと日本企業の脇の甘さについて述べたいと思います。(一部抜粋)

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