今年の5月16日で亡くなってから丸3年、昭和〜平成の時代を駆け抜けた日本を代表する永遠のスター・西城秀樹。彼の情熱的な歌唱スタイルに憧れて、テレビの前で真似をしたという思い出のある人も多いのではないでしょうか。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』では、著者でライターの根岸康雄さんが、2018年に亡くなった歌手の西城秀樹さんが自身の父と母について語ったインタビューを紹介。どんなことにも果敢に挑戦し、決して諦めなかった西城秀樹さんの性格は、とにかく厳しかった父親と、優しくも芯の強い母親から培われたものでした。

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家族に対する愛情が人一倍強かったんだと思う。そんな親父が子供の頃は煙たかったけど。ボクの支えとなったのは、親父の存在だった

西城秀樹(さいじょう・ひでき)1955年4月13日〜2018年5月16日・本名・木本龍雄・歌手・俳優)広島県生まれ。72年「恋する季節」でレコードデビュー。「ちぎれた愛傷」「傷だらけのローラ」など、ヒット曲多数。 79年には『YOUNG MAN』で日本歌謡大賞受賞。歌、ドラマ、ミュージカルなどに活躍。日本の“元祖ロックシンガー”として、幅広い層に人気を得た。

郷ひろみ、野口五郎とともに新御三家の一人。身長、そして今で言うイケメンの極致、私たちの世代にとって、西城秀樹さんこそカッコよさの象徴だった。ピンクレディは別として、歌手にほとんどアクションがなかった当時、テレビのブラウン管の中で、マイクスタンドを振り回し熱唱する姿もカッコよかった。インタビューは日本テレビが麹町にしかなかった時代に、彼の控室でおこなった記憶がある。会話をしながらタバコを吸うのが当たり前の時代だった。彼も私も時に紫煙に包まれた。昭和の雰囲気が脳裏をよぎる。西城秀樹さんの訃報に触れ、私たちの時代の一つの象徴が逝った思いがした。死はいつか訪れるものとわかってはいるが、彼の訃報は自らの死を初めてリアルに意識した瞬間だったかもしれない。(根岸康雄)

厳しかった! 『巨人の星』の”一徹”を地でいくような父

厳しいお父さんだったね。今の時代にあんな父親はいないだろうと思うくらい。子供の頃は怒られた思い出しかない。不動産関係の仕事をしていたお父さんは、ビリヤードとパチンコが一緒になった娯楽施設やバッティングセンターや、 いろんな事業を知人と経営していたから、来客も多かった。

まず、厳しくいわれたのは、お客さんへの挨拶や礼儀作法。きちんと挨拶したら、子供は部屋に戻っていろと。お客さんが来た時は、食事もお母さんが部屋まで持ってきてくれたよね。

夕方は何時までに帰ってこいと門限が決まっていたし、仲のいい友達でも、その子の家に泊まることは許してくれなかった。

「友達をうちに泊めてあげなさい」とお父さんはいうけど、身体は大きいし、迫力のあるお父さんの前で、うちに遊びに来た友達は緊張してしまう。でもね、「こんにちは」と大きな声で挨拶をして、頭を下げるような礼儀正しい子には、その場でパッとこづかいをくれる。

今思うとお父さんは厳格で、白黒はっきりしていて、義理人情に厚くて、実にわかりやすい人だったんだけどね。子供にはそんなことはわからないから。

食事のマナーも厳しかった。食事中に話をしちゃダメ、テレビを見るなんてとんでもない。夕食に、お父さんの好物のおでんが食卓に並んだときなんか、緊張しまくったものだった。 ボクはハシの使い方がヘタだから、鍋の中のコンニャクを取ろうとしてハシでつまむんだけど、 鍋の中にボチャンと落としちゃう。もう一回つまむ、でも、またボチャンと。

二度それが続くと「もう食うなあ!!」と、お父さんはおでんの入った鍋をひっくり返さんばかりに怒ってさ。

当時、『巨人の星』というマンガが流行っていたけど、星飛雄馬の親父の星一徹が、怒ってチャブ台をひっくり返すシーンを見るたびに、うちのお父さんそっくりだなと、思ったもんだよ。

外食はほどんどなく、毎晩お父さんが食卓についてから、「いただきます」と食事が始まるんだけど、 たまには気軽な雰囲気もほしい。

「今日はお父さん、用事で一緒にご飯が食べられない」なんて時は、お母さんと兄貴とお姉さんと、リラックスしてけっこう盛り上がり、夕食を楽しんで。家族でリラックスをしているところに、思いのほか早くお父さんは帰ってきてさ。

家族全員があわててパッと玄関に並んで、「お父さん、お帰りなさい」と。

「うん」なんてうなずいて。お父さんの脱いだ靴をスッとそろえるのは、ボクの役割だった。

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ボギー風の洒落者。子供の前で弱音は吐けなかった人

また、よく叩かれたよ。痛かったけど、でもね、子供を叩くお父さんの方が痛いんだということは、小さい頃から薄々わかっていたんだ。

あれは小学校2、3年の頃だった。学校の宿題に時計の時間を答える問題があって、5時15分前と答えるのが正解だった。 宿題を見てくれたお父さんにボクは「4時45分だ」と答えた。すると、

「そうじゃない、これは5時15分前と答えなきゃいけないんだ」と。

「だってお父さん、一緒じゃないか。4時45分だって間違いじゃないんだから」と、ボクはいいはった。

次の瞬間、パチンとモノサシで足を叩かれた。

「お前、これ、これ何時なんだ!!」

ボクは泣きながら、「5時15分前 …」と答えた。

「おまえは頑固で偏屈で…、もっと素直にならなくちゃいけないよ」そういいながら、お父さんが涙を流しているのをボクは気づいていたんだ。

お前も痛かったろうけど、お父さんも心が痛い…そんな思いが伝わってきた。お父さんは熱い人だった。

お母さんはそんなお父さんに口答えせずに、お父さんを立てていたけど、本当に怒ったらお母さんの方が怖いことを、ボクは知っている。

原因はわからないが、たった一回だけ、 爆発したようにお父さんに言い返すお母さんの姿を覚えている。その時のお父さんは、お母さんの前で頭を垂れるように背中を丸めて、「うんうん」と相づちを打っていたもの。芯の強いお母さんだった。

背はボクぐらいあって、ハンフリー・ボガードと同じような帽子を愛用して、おしゃれだったお父さんは、ゴルフを始めたのも早かった。ゴルフ練習場に連れて行かれたときのことだった。

「シングルプレイヤーを目ざして、体重移動の練習をしているんだ、よく見ておけ!」なんていって。

どうだ、すごいだろうと、お父さんは子供に見せたかったんでしょう。ところが体重を移動しすぎて、クラブをスイングした瞬間、バランスを崩したお父さんはゴルフ練習場の2階から、コロコロっと下におっこっちゃってさ。

「お父さん、大丈夫!?」上から叫んだら、

「なに、大丈夫だ!」なんて。厳格な父親だったから、子供の前で弱音を吐くわけにいかなかったんだろうな。夜、一緒に風呂に入ったら、 尻に青アザができていた。

お父さんは音楽が好きで、よくレコードからジャズが流れているような家だった。兄貴がピアノを習うといった時に「お前もやれ」と、ボクは小学3年からジャズスクールに通った。 そのうちドラムに夢中になり、ドラムセットがほしくなった。ねだれば買ってくれるような親じゃないことはわかっていたから、ボクは新聞配達のアルバイトを始めた。そんな姿を見てお父さんは、

「いくら するんだ?」
「5万ぐらい…」
「お前、 好きなのか、よし!」

と、ドラムセットを買ってくれた。 5万円といったら、当時の子供にとっては想像できないぐらい高価なものだった。ところがある日、ボクがジャズスクールの練習をサボったのを知ったお父さんは、

「ふざけるな!やめちまえー!!」

5万円のドラムセットを2階から投げ捨てたんだ。あれには本当に驚いた。

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「お前は勝負する男になれ!」と、励ましてくれたお母さん

お父さんはやり始めたことを途中で投げ出すのが、大嫌いな人だった。

「ごめんなさい、ちゃんとマジメにやるから」ボクはお父さんの前で正座をして頭を下げた。心底反省した。

「私からもお父さんに ちゃんといっておくから」と、そんな僕を見てお母さんも耳元で囁いてくれて。

翌日、学校から戻ると、2階から投げ捨てられペチャンコになっていたドラムが、傷ひとつないぐらい元通りになっていた。日曜大工のうまいお父さんが直してくれたんだ。

わかってくれればいいんだよ、やる限りは 一所懸命にやりなさい。元どおりになったドラムは、お父さんのそんな気持ちを伝えていた。

やがて兄貴たちとバンドを組むようになると、お父さんは得意の日曜大工で、部屋に防音装置を取り付けてくれて、家で練習ができるようにしてくれた。息子たちが夢中になって音楽をやっている姿が、 うれしかったんじゃないかな。

バンドで演奏するボクが、芸能界のスカウトの人の目にとまったのは高校1年だった。東京に来て歌手にならないかという誘いに、ボクはプロの歌手になりたいと決めた。あのとき、お父さんは大反対だった。

「音楽でメシが食っていけるか! そんな甘いもんじゃないぞ!!」と。

お父さんはあの性格だから、音楽なんかで食べてはいけない、中途半端なことはするなと、いいたかったんだろう。でもね、息子の性格が自分に似ていることも、わかっていたと思う。ある日、「やめろ!」といったきり、黙ってしまった。

一度いいだしたら、きかない子だ。もう決めてしまったのだから、何をいっても無駄だ。お父さんはそう思ったのでしょう。

歌手になりたいというボクに、お父さんが反対したときも、お母さんは味方をしてくれたね。

「どうしても東京に行きたいんでしょう。お父さんには私からあとでいっておくから。連絡先だけは教えてね」と、ボクの手にお金を握らせて。ボクはそのまま、東京行きの寝台列車に乗った。16歳のときだった。

あんなに反対していたお父さんだったが、ボクがデビューしたとき、ポスターを持って「息子をよろしく」と、ボクが卒業した学校の校門の前で、頭を下げてくれたそうだね。 後になってお母さんから聞いて、ちょっと、目頭が熱くなった。

お父さん、ボクはお父さんの大反対を押し切って上京した。中途半端では広島に帰れない。頑張るしかないと、それが心の支えだった。

上京して17歳でデビューして、次にお母さんに会ったのは25歳の時だった。広島でのコンサートの時、楽屋に差し入れの弁当を持ってきてくれたお母さんに、「男はね、勝負しても男、勝負しなくても男。お前は勝負する男になって」と、いわれた。

ボクが広島の実家の敷居をまたぎ、お父さんと向かい合ったのは30歳の時だった。

「もう、お前も大人なんだから、自分の考え方をしっかり持っていけ、体を大事にしろよ、頑張れ」。お父さんのその言葉を聞いたとき、ボクは男として、一人前になれたのかなと実感した。

ボクに子供ができたとき、親父のように子供に接することができるだろうか、ふとそんな考えが浮かぶ。

威厳を持った親父になりたい、そう思う気持ちの反面、あそこまで子供に厳しくすることが、ボクにできるだろうか。(ビッグコミックオリジナル1996年1月5日号掲載)

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