7月8日、奈良県で応援演説中に銃撃され、命を絶たれた安倍晋三元首相。通算8年8ヶ月の長きに渡り国を率いた実績、「外交の安倍」とも評されたその手腕に疑いの余地はありません。安倍氏の非業の死は岸田政権にどのような影響を与えるのでしょうか。政治ジャーナリストの清水克彦さんが難局を迎えることになる岸田政権の今後について考察していきます。

安倍元首相の死で窮地に陥る岸田首相

「自分で努力しない国に手を差し伸べてくれる国はどこにもない。日本とアメリカの間には強固な同盟関係があるが、自分では何もしない日本のために戦うことにアメリカ国民の理解を得ることができるだろうか」

7月6日午後、横浜駅西口での街頭演説で、安倍元首相が聴衆に語りかけた言葉である。奈良市の近鉄大和西大寺駅で銃撃され亡くなる2日前のことだ。

筆者は、葬儀が行われた増上寺で、在りし日の演説を思い起こしながら、その死去で最も打撃を受ける政治家は、岸田首相ではないか、と思うに至った。

安倍氏は積極財政派だ。筆者が最後に見た横浜駅西口の演説でも、アベノミクスの成果を振り返り、「円安であっても大胆な金融政策は続けるべきだ」と語ってみせた。

自民党保守派の要でもある安倍氏は、「防衛費は少なくとも現在の年間5兆4000億円規模から7兆円程度には引き上げるべき。その財源は国債で賄えばよい」との論陣を張り、この日も、「有事に戦えなければ抑止力とならず平和を守ることはできない」と述べて、憲法への自衛隊明記と防衛費のGDP比2%までの増額を繰り返し強調した。

これに対し、岸田首相は財政規律派である。防衛費の増額に関しても、「向こう5年間で段階的に」であり、「数字ありきではなく必要なものを精査したうえで」とする考え方だ。とても相容れない。

しかし、安倍氏の死は岸田首相にとってプラスには作用しない。

なぜなら、このところの自民党の政策は、経済であれ安全保障であれ、安倍氏がまず明確な旗を立て、その行き過ぎた部分を党内で調整し実行するという流れで実行されてきたからである。

批判の矢面にも立ってきた安倍氏を失ったことで、今後は、岸田首相自身が、直面する物価高対策や防衛費増額など重要課題で「このようにやる」と旗を立て、それに反応する党内勢力や国民と向き合わなければならなくなった。

安倍氏のような強硬姿勢を取らず、「聞く力」を強調して調整型を自認する岸田首相は、敵を作りにくい。国民感情を逆なですることがない分、支持率も安定していたが、自身で旗を立てなければいけなくなるとそうはいかない。党内の反対意見や国民の批判を岸田首相自身が全身で受け止めなければならなくなる。

岸田首相が直面する最初のハードルが「人事」

当面のハードルは、まず、9月初旬に行われるとみられる自民党役員人事と内閣改造だ。

安倍氏が健在であれば、「幹事長は茂木氏ではなく萩生田経済産業相ではないか」(自民党衆議院議員)、「高市政調会長も替えるのでは?」(同)との声もあった。

これは、安倍氏率いる清和政策研究会(以降、安倍派と表記)の幹部である萩生田氏を一本釣りすることで安倍派を分断し、安倍派に所属する松野官房長官、安倍氏の意図を汲む高市氏も外して「安倍氏からの独立宣言をするのでは」(同)と言われてきた。

内閣改造で言えば、参議院選挙に出馬せず勇退を決めている金子農水相と二之湯国家公安委員長は交替、健康不安説がささやかれてきた岸防衛相も降板というのが大方の見立てであった。

ところが、突然の訃報によって事態は大きく変わった。「早ければ8月初旬にも」が「9月初旬」になり、安倍氏が唱えてきた憲法改正や防衛力強化への真剣度を示すうえで、安倍派や保守派とされる高市氏らの処遇を無碍にはできなくなった。

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今、党内第4派閥の岸田派は、最大派閥の安倍派や第2派閥の茂木派などが揺らげば、急速に安定感を失う逆ピラミッド状態にある。それだけに、茂木氏や高市氏の扱いが最大の焦点となる。

同時に、安倍氏という会長を失った安倍派も、当面は、新会長を置かず、有力者7人による世話人会を設けて集団指導体制で派閥を運営する。党役員人事や内閣改造人事で派閥内に不満が高まれば、分裂含みの可能性もはらんでいる。

2つ目のハードルは区割り

2つ目のハードルが衆議院選挙の「10増10減」に伴う選挙区の区割りである。

6月16日、衆議院の小選挙区をめぐる、いわゆる「1票の格差」を是正するため、政府の衆議院選挙区画確定審議会が、小選挙区の「10増10減」など合わせて25都道府県、140選挙区の区割り案を岸田総理大臣に勧告した。

政府は、これを受けて新たな区割り法案を国会に提出し、法律が成立すれば、周知期間を経て、次の衆議院選挙から新たな区割りが適用されることになる。

これがもめる。選挙区の見直しは、現職の衆議院議員の利害が激突する。言葉は悪いが、「泥棒が刑法をいじる」ようなもので、当事者が決める法案は、「何で俺の地盤の地域が別の選挙区になるんだ!」など、国会提出前の段階で紛糾するのが目に見えている。

小選挙区が10増え、10減るという単純なものではなく、140選挙区で区割りの線引きが行われる。小選挙区が増えたところには支部長を置く必要があり、区割りと支部長が決まらなければ、岸田首相は解散権すら行使できない。

選挙をつかさどるのは幹事長である。先に述べた人事にも重なる話だが、新たな区割りに合わせ候補者だけでなく支部長も決める重責を、茂木氏にやらせるのか別の人間を起用するのかも問われることになる。

また、9つも選挙区が増える関東をめぐっては、早くも公明党から自民党に対し、「うちに1つか2つ任せてほしい」との要望が来ているとも聞く。そうなると自民党幹事長にとっては、公明党との調整も難題になる。

支持率上昇の可能性がほとんどない岸田首相

ここまで直近のハードルを2つ挙げたが、新型コロナウイルスの変異株「BA.5」による感染急拡大、それに伴う全国旅行支援の延期、円安、秋の補正予算編成、そして年末に予定される戦略3文書(国家安全保障戦略、防衛の大綱、中期防衛力整備計画)の見直し、いずれをとっても、岸田首相の支持率を押し下げる要因になるものばかりだ。

岸田首相は、安倍氏という考え方が真逆でライバルの1993年当選組の同期を失くしたばかりでなく、自身への支持率も失いかねない嵐の中で船を漕ぎ続けることになる。

安倍元首相の葬儀が行われた増上寺での献花の列(撮影:清水克彦)

増上寺での献花の列(撮影:清水克彦)

バイデン大統領も漂流中

岸田首相以上に厳しい状況に追い込まれているのが、アメリカのバイデン大統領である。

食品や消費財、ガソリンや光熱費の価格上昇という空前のインフレを受けて、バイデン大統領の支持率は、今月、ついに40%を割り込んだ。

ニューヨークタイムズが7月12日に公表した世論調査では、64%が2024年の大統領選挙で「バイデン以外を望む」と回答している。

現在、79歳のバイデン大統領は、2024年の大統領選挙時点で81歳を迎えることになるが、年齢の問題以上に、インフレに有効な手立てがなく、対中戦略にも揺らぎが見えることが問題だ。

バイデン政権は、トランプ政権から継続している対中関税の見直しに言及し始めた。アメリカは現在、中国からの輸入品の6割以上に最大25%の関税を上乗せしている。これを撤廃すれば、物価の上昇を1%あまり抑制できる。

6月の物価上昇率が9.1%だったことを考えれば焼け石に水だが、11月には中間選挙を控え、背に腹は代えられないというのが本音であろう。

当然、民主党内からは、「中国への圧力を失う」との反対意見が上がっているが、すでにアメリカは、サリバン大統領補佐官やカート・キャンベルインド太平洋調整官が、中国外交トップの楊潔篪政治局委員と、そしてブリンケン国務長官が王毅外相とぞれぞれ会談し、対話路線に舵を切ったように見える。

近く、バイデン大統領と習近平総書記による米中首脳会談が電話かテレビ会議方式で開催されれば、しばらくは「撃ち方止め」の状態に入る可能性もある。

そのバイデン大統領は、安倍氏の死亡が確認された直後、声明を発表し、ワシントンの日本大使公邸を弔問した。さらに、バリ島でのG20外相会合に出席していたブリンケン国務長官を急遽、東京に派遣した。これを進言したのはバイデン大統領が絶大の信頼を寄せるエマニュエル駐日大使である。

これらの動きを見れば、アメリカの日本重視の姿勢に揺らぎは感じられないものの、バイデン政権の対中政策を支えてきたサリバン補佐官が夫人の下院選出馬で退任の意向を示したとの情報や、カート・キャンベル調整官も退任のうわさが消えないなど、バイデン政権そのものが揺らぎ始めていることが懸念される。

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著書紹介:ゼレンスキー勇気の言葉100
清水克彦 著/ワニブックス

清水克彦(しみず・かつひこ)プロフィール:
政治・教育ジャーナリスト/大妻女子大学非常勤講師。愛媛県今治市生まれ。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。京都大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得期退学。文化放送入社後、政治・外信記者。アメリカ留学後、キャスター、報道ワイド番組チーフプロデューサーなどを歴任。現在は報道デスク兼解説委員のかたわら執筆、講演活動もこなす。著書はベストセラー『頭のいい子が育つパパの習慣』(PHP文庫)、『台湾有事』『安倍政権の罠』(ともに平凡社新書)、『ラジオ記者、走る』(新潮新書)、『人生、降りた方がことがいっぱいある』(青春出版社)、『40代あなたが今やるべきこと』(中経の文庫)、『ゼレンスキー勇気の言葉100』(ワニブックス)ほか多数。

image by: 岸田文雄 − Home | Facebookk

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