1月19日、定番の人気お菓子でも有名な「ロッテ」創業者の辛格浩(シン・ギョクホ)氏が、98歳の生涯に幕を閉じました。今回の無料メルマガ『キムチパワー』では韓国在住歴31年の日本人著者が、韓国が誇る世界的起業家の辛格浩氏がいかにして戦前戦後の困難を乗り越え、たった一代で世界と対峙できる大企業を育てたのか、その軌跡を辿り称えるとともに、辛氏と日本との関係についても記しています。

ロッテの一つの時代にピリオド

辛格浩(シン・ギョクホ)と聞いてもピンとくる人はいないはずだ。ロッテといったらどうだろうか。ロッテを知らない日本の人はいないはず。そう、あの有名な「お口の恋人」ロッテを作った人がこの辛格浩氏だ。辛格浩氏の特集がいろいろの新聞でやられている。朝鮮日報を土台としてご紹介したい。

辛格浩氏は、日本の植民地支配期だった1922年慶尚南道蔚山三南面ドゥンキリというところで、貧農の家の5男5女のうち長男として生まれた。彼は蔚山(ウルサン)農業高校を卒業して豚の飼育をはじめたけれど、もっと勉強することを願った。1941年親戚のお兄さんが用意してくれた路銭83円を持って日本に留学し早稲田大学で化学を勉強することになる。会社員の平均月給は当時だいたい80円から100円程度だったという。30万円くらい持って行ったということか。彼の日本での名前は重光武雄だ。

青年重光武雄(=シン・ギョクホ)は、日本で昼は牛乳と新聞を配達し、夜は大学に通いながら学業に励んだ。偶然に出会った日本人の事業家花光さんという人が彼を高く評価し、事業資金として5万円を貸してくれる。辛格浩はこの金で1944年東京周辺に潤滑油工場を建てる。しかし工場は米軍の爆撃を受けて稼動もできないまま焼けてしまう。5万円はそっくり借金として残る。

1945年8月、日本は無条件降伏、韓国は植民地からの解放。このとき、日本にいた韓国人が大挙して母国に帰国したが、辛格浩は「私を信じてお金を貸してくれた人を置いて行くことはできない」と、牛乳配達をしながら工事現場で肉体労働をやり、事業の元手を調達した。彼は当時、雨が降っても雪が降っても、配達時間を破ったことがないという。配達時間が正確だといううわさが広まり、辛青年のところに牛乳配達の注文がどっと舞い込んでくることになる。

こうして貯めたお金を全部まとめて1946年、東京に「ひかり特殊化学研究所」という工場を建てて石鹸クリームなどを作って売った。石鹸は飛ぶように売れ、1年半後には借金を全部返すことができた。辛青年は自分を信じ続けてくれた花光氏に借りた資金をすべて返したうえ、感謝の気持ちの表れとして家まで1軒買ってあげた。

以降、飛ぶ鳥も落とす勢いの辛格浩社長は、1948年には資本金100万円、従業員10人の会社を設立して「ロッテ」の看板を初めて掲げた。ガム会社の(株)ロッテを創業、「ロッテ神話」の幕開けとなったわけである。会社名の「ロッテ」は、ゲーテの「若きヴェルテルの悲しみ」に出てくる女主人公「シャルロッテ」から取ったものだ。一時、作家の夢をもっていた辛格浩氏が、ロッテがシャルロッテのように愛される企業になることを願ったことから名づけられたという。後年、辛格浩氏は「ロッテ」というブランド名を考えたことがわたしの最大の収穫ということばも残している。

ロッテは、ガムに続いてチョコレート、キャンデー、ビスケットなど事業領域を広げ、日本屈指の総合製菓企業としての地位を固めてゆくことになる。1959年にはロッテ商事、1961年ロッテ不動産、1967年ロッテアド、1968年ロッテ物産、株式会社ファミリーなど事業を多角化し、日本の10大企業にまで成長した。

日本での事業が定着すると、辛格浩氏は故国韓国に目を向けることになる。辛格浩名誉会長(晩年の地位)は、1966年韓日国交正常化によって投資の道が開かれると、事業を韓国へと拡張して、1966年にはロッテアルミニウムを、1967年にはロッテ製菓を設立した。ロッテはジューシーフレッシュ、スピアミント、バタークッキーなどヒット商品を次々と打ち出して急速に成長してゆく。

飲料・氷菓会社を買収する一方、観光・流通・建設・石油化学事業にも進出した。1973年にはソウル小公洞(ソゴンドン)に地下3階、地上38階規模のロッテホテルを竣工した。1974年と1977年には七星(チルソン)ハンミ飲料と三綱産業をそれぞれ買収して、ロッテチルソン飲料やロッテサムガン(現ロッテフード)に社名を変更した。1979年にはロッテホテルの隣にロッテデパートをオープンし流通業にも進出した。平和(ピョンファ)建業社(現ロッテ建設)と湖南(ホナム)石油化学(現ロッテケミカル)を買収したのもこの頃だ。以降1980年には韓国富士フィルム、1982年にはロッテキヤノン・テホン企画などを設立し事業領域をされに広げてゆく。

ロッテグループは1980年代の高度成長期にタイミングよく乗り、相次ぐ合併・買収を通じて、今日、韓国内の財界第5位の企業になっている。辛格浩名誉会長は、このような高速成長を背景に、1990年、米国経済専門誌のフォーブスが選定した世界の億万長者番付の第九位に上がったこともある。

しかし辛格浩の時代は2015年7月、長男の辛東主(シン・ドンジュ)元ロッテホールディングス副会長と次男の辛東彬(シン・ドンビン)ロッテグループ会長が経営権紛争を繰り広げることから傾き始める。この過程で辛名誉会長は経営の一線から退くことになる。2017年には、ロッテ建設やロッテジャイアンツ、日本ロッテホールディングス、ロッテアルミなどの取締役から退き、韓日ロッテの経営から完全に退くことになる。日本で70年、韓国で50年間続いた「辛格浩時代」にピリオドが打たれたわけである。

辛名誉会長は昨年6月、裁判所の決定によって居所をソウル蚕室(チャムシル)にあるロッテワールドタワーから小公洞(ソゴンドン)に移した。以後健康が悪化し入退院を繰り返しながら、1月19日午後、98年の長きにわたる人生行路にピリオドを打った。合掌。

韓国を代表する偉大な経営者である。一代でこれだけの事業を展開するっていうのは、誰にもできるワザではない。運と才能が錬金術のように昇華するとき、こういう奇跡が生まれるのであろう。去年のボイコット・ジャパン(日本製品不買運動)のときには、日本系の会社だということで散々の目に遭っている。今もその影響がゼロとはいえないようであるけれども、生粋の韓国人の作った会社なのだから、ボイコットだのなんだのと言うのはほどほどにしてほしいところだ。いいものはいいと、素直に認めてあげたらいいのに。そう思う。

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