芝居の町、大阪・道頓堀。大正から昭和の時代を描く連続テレビ小説『おちょやん』に登場する、「芝居茶屋」。芝居客の世話を行っていたが、この形態の店は今はほとんど姿を消している。しかし、「かつて芝居茶屋だった」という店なら今でもある。その名も「道頓堀 今井」。うどんの名店だ。

「道頓堀 今井」は、戦後間もない1946年にうどん店として創業。それまでの経緯を辿ってみると、『おちょやん』に登場する2つの芝居茶屋、「岡安」と「福富」(物語中に楽器店に改業)とそっくりであることに気づく。

実際に「今井」の3代目社長、今井徹さんに話を聞いてみた。すると今井社長は開口一番、「岡安と福富は、うちがモデルやと思います」。そう話すのには確かな理由がある。まずは1946年にうどん店として創業するまでの経緯をば…。

「今井」の前身、芝居茶屋の「稲竹」は1838年に創業。当時、芝居は朝から夜までの1日がかりで上演されていた。そのため芝居客は泊まりがけで芝居小屋に来たり、長い休憩時間を小屋の外で過ごしたりする。そうした客を相手に、小屋への案内や弁当の仕出しなど、世話全般を行うのが「稲竹」をはじめとする芝居茶屋の役割だった。

しかし昭和初期ごろ、時流の変化に伴い芝居茶屋の需要は低下。今井は経営形態を一新させるために芝居茶屋の暖簾を下ろした。そして楽器好きの主人の趣向から、1916年に「今井楽器店」をオープン。西洋モノやジャズの流行に伴い人気を博したが、1943年、戦争の影響でジャズレコードと金管楽器の販売が禁止に。終戦間近まで店内に並んだのは、軍歌のレコードとなった。

『おちょやん』視聴者ならお分かりだろう。芝居茶屋としての将来を見限り楽器店にチェンジした「福富」と、同じ軌跡を歩んでいるのだ。

物語の随所に、他にも共通点が散見される。例えば、「福富」の長男、福助が「芝居茶屋はもう時代に合わない。これからは少なくなっていくだろう」と話したシーン。今井社長によると、「うちの祖父も、当時の亭主に訴えかけたそうです。この言葉が、芝居茶屋を終えるきっかけのひとつにもなったとか」。

また、「岡安」とのライバル関係についても言及。「稲竹で働いていたやり手のお茶子が、分家の『稲照』という店を構えました。稲竹のお客さんもそちらに流れたことで、苦しい時期があったそうです」

今『おちょやん』で描かれているのは、戦争による苦難が色濃い1940年代。当時について、今井社長はこう語る。

「1945年3月、大空襲で道頓堀は焼け野原になり、今井楽器店も全焼したことで、一家は高槻に疎開しました。戦後に道頓堀に戻り、生活するためにかき氷や栗を売って糊口をしのいでいました」

うどん店を創業したのは、そんな日々でのことだった。

「ちょうど家の向かいに行列ができていたんです。何があるのか父が見に行ったところ、うどんが提供されていたそう。『寒くなってきたし、うちもうどんを作ろう』と考え、売り出したのが発端です」。ちなみに『おちょやん』の公式発表によると、岡安は終戦後、「岡福うどん」となることがわかっている。

終戦後、道頓堀は「芝居の町」としての様相を取り戻した。今井社長は1950年以降の道頓堀についてこう語る。

「道頓堀はブロードウェイのようで、あちこちにスターがいました。例えば、道頓堀で本番のあった辰巳柳太郎さんを待つために、今井の正面玄関あたりで弟子の緒形拳さんがいたとか。松竹新喜劇の藤山寛美さんは、お正月に中座(かつて道頓堀にあった劇場)の前でお酒を振る舞っていましたね」

創業から75年、道頓堀を酸いも甘いも知り尽くした「今井」。今は唯一無二のうどん店として、道頓堀に名を馳せている。

今井社長は「芝居茶屋や楽器店のときから、今井には“えぇもん好き”の気質が受け継がれている」と話す。

「高品質の楽器や、使用するお皿。徹底的に良いものにこだわり、一流のサービスを目指すんです。父は『安もんにはいつでもなれるが、そこから一流に戻るのは難しい』とよく話していました。道頓堀も世界もどんどん変わっていきますが、これからも真心ある商売は変わらず続けていきます」

いよいよ佳境を迎えようとしている『おちょやん』。「今井」に想いを馳せながら観てみるのも悪くない。

(まいどなニュース特約・桑田 萌)