連日、教職員間での加害行為についての報道が続いています。筆者も神戸の須磨の学校に通い、学校の先生を志し、スクールカウンセラーとなりました。学校では教育熱心な先生方にも沢山出会ってきたため、今回のような事件が起きてしまったことは残念でなりません。

この事件は、子供たちに生き方を教える場でもある学校という現場で起きており、社会的な問題ともいえます。子供たちの成長を日々見守り、いじめ対策に習熟しているはずの教師の間で、なぜこうしたことが起きてしまったのか、偶発的な事件として風化させずに、原因と対策を考えていかなければなりません。

筆者は犯罪心理学の観点から加害者の心理教育を行っていますが、こうした加害事件では、加害者は自分の行為を見つめなおすよりも、周囲からの批判や叱責に対して、不安に陥り、「自分を守ろう」とする防衛的な反応や「忘れてしまいたい」という逃避的な態度を取ってしまい、行動原理の本質が見えにくくなってしまいます。

ある加害者は「幼稚でした」「考えが甘かったと思います」といった表面的な発言を繰り返していましたが、被害者からの手紙を読み、自分の家族が疲弊する姿を見てようやく自分が変わらなければならないと認識を改めました。

しかしそれもまだ、“後悔”であり、自分の行動の意味を本当に理解しているわけではありません。事件の処遇が決まり、日常生活に戻ると次第に当初の気持ちも薄れてしまうため、再発防止の心理教育では忘れないための手立てや課題を出し、長期間持続させていきます。

加害者が深く考えていくためには、どうしてこのようなことが起きてしまったのかについて、個人の特性、生活史、文化的な背景など、様々な背景を心理的に分析し、一つ一つの可能性と向き合いながら、更生に向けた長い時間が必要になります。

今回の事件では「いじめ」という表現が度々使われています。いじめは、その芽が出てきたときに早期に防止を働きかけなければエスカレートし、今回のような大きな事件を招くこともあります。いじめが起こる本質には一体何があるのでしょうか。

以前、いじめ被害を受けていたある方は「ニュースや動画の映像を見るだけで、昔の自分のことを思い出して吐き気がする」と涙ながらに語りました。「言い返せばいいという人もいるけど、同調して笑っているだけで精一杯。抵抗したらもっとひどいことをされてしまう」と語り、そこには集団心理独特の感性が働いていることに気づかされます。

いじめ加害者の行動の背景には、抑圧された不安や攻撃的なエネルギーが潜んでいることがあります。人は自分と似た要素を持つ者に関心を持ちます。加害者にとって被害者は、無視できない自分の過去やコンプレックスを感じさせており、どこか気になる存在となっています。

普段は抑えられていますが、あるとき何らかの引き金で、対象者に向かって暴発していきます。遊び半分を装いながら行為を合理化させ、認めたくない過去の自分を攻撃し、集団から排除させるか、仲間に入れて変化できるかを試していきます。

一方、標的にされた被害者は、ストレス反応として戦うか逃げるかの選択を迫られますが(闘争・逃走反応)、加害者の周囲にはすでに多くの仲間や、それを見ている傍観者が存在しており、緊張感を強めていきます。

被害者はそれを察知し、見られているという意識の中で、不安や緊張をなるべく出さないように、“笑う”という、ストレスを緩和させる反応を示し、その状況を必死で受け入れようとします。加害者は自分の行為が許容され、周囲にも承認されたと認識して繰り返し、被害者は自分らしく振舞えないことに自信を失い、自分を嫌いになってしまうこともあります。

いじめ被害を受けていたある方は「はたから見れば遊んでいるように見られていたけど、結局は耐えられずに、いじめられた方が休学や休職をして、解決したように見えていくのが納得できない」と語りました。

機械的な知識や技術が進歩し、コミュニケーションをとらなくても必要な情報が手に入る時代になりました。人の心も見えにくくなってきているのかもしれません。しかし、そうした世の中だからこそ、一人一人が規範意識や道徳観をこれまで以上に意識し、自分自身と向き合い、人間的な成熟を大切にしていかなければなりません。

(公認心理師/臨床心理士・中村 大輔)