京都市東山区の三条通から、清流の流れる白川通を下り、脇道に入った所に明智光秀をまつる首塚がある。実は2回も移転していたことが、奈良大の村上紀夫教授(日本文化史)の新刊「江戸時代の明智光秀」(創元社)で明らかになった。謀反人として白い目で見られ続けていたかに思われていた光秀の意外なイメージが、首塚の経緯とともに明らかになってきた。

 山崎の戦い(1582年)で敗れた光秀は、重臣斉藤利三や家族と共に「粟田口」に首がさらされ、やがて付近に葬られて首塚ができた。現在の地下鉄蹴上駅の北側付近と推測される。江戸時代に入って周辺に民家が建ち、目立たなくなった首塚だが「少しでも触れた者にはたたりがある」とおそれられ、周囲には木が茂ったまま放置されていたという。

 1771年ごろに突然光秀の子孫が「見つかった」ことで状況は一変した。白川通三条付近に家があった能楽師の明田利(理)右衛門。先祖については「丹波の出身」としか知らなかった利右衛門を、周囲の住民は光秀の子孫と見なして首塚を敷地ごと無償譲渡した。詳細な経緯は不明だが「厄介な塚を押しつけられた可能性もありますよね」と村上教授は想像する。その後、首塚は利右衛門宅近くに最初の移動をした。利右衛門の子孫は明治に入って改名し、明智姓を名乗るようになった。

 「子孫」にまつられ、たたりはないと見なされたのか、首塚は一転して信仰の対象になった。1835年に行われた250年忌には5日間にわたる法要が営まれた。「首から上に病がある人は拝むと効果がある」という伝説も大正期に出版された調査記録に残っている。

 首塚は整備が進み、参詣の対象にもなった。1845年に建てられ今も残る石碑には「参詣は日没までに」という意味の文字が刻まれている。光秀の亡くなった6月13日は、当時の祇園祭の期間にあたる。祭りの客が、近くの光秀の首塚にお参りしていったのかもしれない。

 明治に入って開明派で知られた長州出身の槇村正直が京都府政を担うと首塚に逆風が吹く。文明開化の時代に怪しげな迷信はふさわしくないと禁止され、1871(明治4)年には光秀の首塚も謀反人をまつる怪しげな信仰として、撤去されたことが村上教授の調べで新たにわかった。

 槇村が京都から去った後の81年以降に約20メートル離れた場所に復活したのが現在の首塚。このとき元の場所を掘り返して見つかった「人骨」も一緒に埋めた、と当時の記録にはあるがこれは光秀のものだったのかはわからない。

 「塚には伝承しか残っていないのがほとんどで、光秀の首塚は文献や古地図で歴史をたどれる非常に珍しいもの。京にとって光秀が特別な存在だった」と村上教授は話す。

(まいどなニュース/京都新聞)