長野県佐久市の田園地帯に、星型の五角形が浮かび上がる場所があった。北海道・函館にある五稜郭とまるで瓜二つ。それもそのはず、ここは日本に2つしかない本物の五稜郭だという。現在は佐久市立田口小学校として使われている。城郭跡に小学校が移転してきた珍しい事例だ。

民間に払い下げられた龍岡城跡に小学校が移転してきた

長野県佐久市には、函館にある五稜郭とよく似た様式要塞がある。調べてみると、元は龍岡城という本物のお城で、函館の五稜郭と同じ星型稜堡をもつ城郭だ。

江戸時代末期の1867年(慶応3)、この地を治めていた田野口藩の11代藩主・松平乗謨(のりかた)によってつくられた。田野口藩は1万6000石という小藩だったが、松平乗謨はフランス語が堪能だったことから、幕府がフランス式軍隊を整備する際に大番頭(おおばんがしら)に任命されたり、老中に次ぐ要職である若年寄に任命されたりしている。その後も、陸軍奉行や陸軍総裁など、軍事面で幕府の要職を歴任した人物だ。幕臣ではあったが開国論者だった松平乗謨は、明治維新後は新政府に仕え、日本赤十字社の前身である博愛社の設立に尽力した。

ではなぜ、五稜郭に佐久市立田口小学校が建っているのか。教頭先生にお話を伺った。

「今は文化財になっておりまして、文化財の中に学校がある例はここだけです。明治の学制発布で、1873年(明治6)、蕃松院というお寺に尚友(しょうゆう)学校が開校しました。これが田口小学校の前身です」

龍岡城は1871年(明治4)、すでに廃城となって堀が埋め立てられていた。大広間・書院・御台所など城内にあった建物は入札により地元の人たちに買われて、移設されたりほかの施設に再利用されたりしていた。旧藩士の所有となっていた御台所が寄付され、校舎として改築された後、1875年(明治8)に移転してきたのだという。学校の敷地も五稜郭のまま利用されたため、土塁や石垣が破壊されることなく、今も当時の面影を留めているというわけだ。

誰でも出入り自由だから観光客が窓から授業を覗く

佐久市にある五稜郭の大きさは、星形の頂点である稜角の間が東側150m、西側145mで、面積でいうと函館にある五稜郭の4分の1だそうだ。

築城当時の設計図が残されている。それによると、全周を堀で囲む計画だったらしいが、実際には堀の一部がつくられなかった。その理由が明らかにされていないため、城郭研究者の間で諸説あって一定しない。堀をつくる予算がなかったことと、幕末の政情不安により完成を急いだ説が最も有力だという。他にも「途中で設計を変更した」「たんに未完成」という説もある。

それでも1866年に外構が完成、1867年4月には建物の一部が落成して竣工祝が行われた。このときは領民にも城郭を公開して、見学を許したという。

ところで、佐久市の五稜郭は1934年(昭和9)5月1日、国史跡に指定された文化財である。文化財の中にある学校の日常は、どんな感じなのだろうか。

「どなたでも出入りが自由ですから、地元の方も観光客の方もいらっしゃいます」

コロナ禍のため数は減ったそうだが、観光バスが校庭を横切っていく光景は珍しくないという。

「授業をしていると、窓から覗いている方もいらっしゃいます」

もはや不審者を見分けることは不可能だというが、そのせいで事件や事故が起こったことはないそうだ。

「春に桜が満開になると、桜の木のそばでお弁当を広げている人の姿を見かけますよ」

なんと、おおらかな風景だろう。そんな雰囲気をいつまでも残してほしいと思うのだが、残念ながら田口小学校は今年度限りで閉校してしまうそうだ。

「11月15日に閉校式典を予定しています」

赴任してまだ3年目の教頭先生も、名残惜しそうだった。

田口小学校では、各学年で五稜郭関連の学習に取り組んでいて、学校のホームページには「五稜郭検定」も設けられている。誰でもアクセスできるから、挑戦するなら今のうちかも。

※記事を一部修正しました(10月2日18時10分)

(まいどなニュース特約・平藤 清刀)