520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故は12日で発生から32年を迎える。当時、遺体安置所だった藤岡市の光徳寺では7月に「三十三回忌法要」が営まれ、犠牲者家族でつくる「8・12連絡会」の事務局長、美谷島(みやじま)邦子さん(70)が講演した。愛息を失った悲しみ。事故原因の究明、被害者の連携や支援態勢の構築に奔走してきた日々−−。これまでの歩みを振り返り、「被害者一人一人に寄り添う社会を」と訴えた。【杉直樹】

 ◇ごめんね…

 「それは『さようなら』もない突然の別れでした」

 −−1985年8月12日夕方。美谷島さんは羽田空港にいた。次男の健さん(当時9歳)が大阪のいとこの家に遊びに行くために一人で飛行機に乗るのを見送りに来ていた。乗り物好きの健さんは、ジャンボ機を見てはしゃいでいた。別れ際にその手を握った。午後6時12分、大阪へ向けて離陸したその機体を見えなくなるまで見送った。

 自宅に戻ると、テレビに速報のテロップが流れた。「123便の機影が消えた」。慌てて手元の紙を見る。「123便ちびっこVIP」の文字。心が凍りついた。

 夫と事故現場に入ったのは3日後。当時は今のように整備された登山道はなかった。「健はきっと生きている」。そう信じ、泥まみれになって登った。歩き始めて4時間後、目の前に飛び込んできたのは、辺り一面に散乱した機体の破片だった。

 健さんのお気に入りのジュースをかけると、燃えて熱を帯びた破片の上で、ジューッと音を立てて蒸発した。「ごめんね、ごめんね……」。山に向かってつぶやくのが精いっぱいだった。

 事故から5日後の17日、遺体安置所となった藤岡市の体育館。遺体確認のために見せられたのは、わずかな胴体の一部と右手だけだった。手のイボ。爪の形。「健です」。夫がその小さな右手を握り、「もう一人ではないよ」とつぶやいた。結局、遺灰はたばこの灰くらいにしかならなかった。「人の命をこんなにも粗末にしていいのだろうか」。今まで感じたことのない思いがこみ上げてきた。

 ◇被害者支援、さきがけに

 その年の12月、犠牲者の家族らは「8・12連絡会」を結成する。以降、この会は、それまで「蚊帳の外」に置かれがちだった被害者の支援態勢の構築に大きく寄与することになる。

 国の最終報告書は87年、事故原因は修理ミスを遠因とする圧力隔壁の破壊と結論付けた。「しかし、疑問が残りました」。2010年、「8・12連絡会」は疑問点をまとめ国に提出。翌年、報告書の解説書が公表された。「画期的なことでした」。その後、他の事故でも事故調査報告書の開示が進み、現在はインターネットでも閲覧できるようになった。

 連絡会は被害者支援の制度化も求めてきた。12年には国土交通省が事故時の被害者の心身ケアなどに当たる「公共交通事故被害者支援室」を設置し、16年1月の長野県軽井沢町のスキーツアーバス事故で、国として初めて現地に相談窓口を設け、遺族や負傷者への説明会を開いた。

 原動力は何だったのか。美谷島さんは言う。「一人一人の悲しみは点だけど、支え合うことでつながって線になる。32年間で被害者の連携が大きく進み、その連携で、支援体制の構築が始まった」。連携を支えた連絡会の会報「おすたか」は今年7月発行で106号を数える。

 ◇失われた命生かす

 「事故の発信を、三十三回忌まで続けられるなんて、当初は思いもしなかった」

 事故現場の上野村では毎年、命日の前日には灯籠(とうろう)流し、命日に慰霊式典が行われ、墜落現場の御巣鷹の尾根には遺族が慰霊登山に訪れる。乗客45人が死傷した12年の関越道バス事故や東日本大震災の遺族の姿もある。「失われた命を生かしたいという共通の思いがあるからです」と美谷島さんは口調に力を込めた。

 昨年から地元の東京都大田区の小中学校の子どもたちを連れて慰霊登山ツアーを始めた。「一人でもこの世に覚えている人がいる限り、その人は死なない。あの日から、私の夢は健ちゃんに会うことです。亡き人を思う悲しみや苦しみが、かき消せない炎のようにあるから、亡き人とともに生きていけると思っています」

 講演の最後をこう締めくくった。「被害者一人一人に寄り添う社会。そして誰もが誰かの命を包む社会を作っていきたい。群馬の皆さまには、後継者のために、忘れてはならないことを忘れないために、これからもよろしくお願いいたします」