ソレンコクニテゲンキデイマス ソレンコクノヒトハミナヨイヒトデス キュウヨウモトテモアリマス アンシンシテクダサイ−−

 博多港を経て昭和21(1946)年1月、故郷の上郷村(現飯田市)へ帰り着いてから、しばらく夫の実家で暮らすことになった。シベリアに抑留されている夫から届いた手紙がカナで書かれているのは、収容所を運営するソ連の人々が検閲をするためだろうとうすうす察しはついた。ただ、そこに書かれているような楽な暮らしを送っていることを疑いはしなかった。

 近況をしたためて手紙を返したが、一人息子の広が引き揚げ船に乗る前に1歳半で亡くなったことは書かなかった。うそをつく必要がないように、また、夫が気を落とさぬように、広の名をつとめて出さないようにした。

 飯田の大火(47年4月)が起きたのは、まだ夫の帰りを待っていた頃だった。ちょうど、実家から峠をひとつ越えたところに住む親戚に頼まれて、結婚式で使う花嫁衣装の針仕事を住み込みで手伝っていた。騒がしいので外に出て見上げると、緑の山並みの向こうに、オレンジ色の火柱が一直線に並び、そこから白い煙が青空に向かってもくもく上っている。心配になって、鎮火してから様子を見に行くと、夫の実家は火元から離れていたのでかろうじて無事だったけど、市街地はがれきの山だった。ここにはなじみの呉服屋が、そこには薬屋があったと、通りの景色の記憶が私の中に焼き付いていたので見分けもついたけど、目に入るのはどちらを向いてもほとんど違いはない。白と黒の世界だった。

 大火から何カ月かたって、夫が帰ってきた。私は玄関に飛び出して夫を抱きしめる、なんてことはしなかった。ちょうど桑の葉を蚕に与える忙しい時期だったのだ。義理の兄たちが上郷駅へ迎えに出ていって、しばらくして玄関が開くがらがらという音が聞こえ、「帰ってきたぞ」なんて声がした。座敷の方からわあわあ歓声が上がる。その間も、私は蚕の世話をしたり、台所にこもって祝いの食事の準備をしたりしていた。もちろん夫と会うのを誰より楽しみにしていた。その時代、嫁とはそういうものだった。

 宴(うたげ)がお開きになってやっと二人きりになると、私は広が亡くなったことを告げた。やせこけて、疲れ果てた様子の夫は驚いたふうでもなく「仕方ないよ」とだけつぶやいた。聞けば、私の手紙はシベリアに届けられずに京都の舞鶴港にとどめ置かれ、引き揚げ船が到着した時にやっと渡されたという。広について何も書かれていないのに気づいて、心の準備をしていたらしい。

 親戚の提案で広の葬式を挙げることになった時は、亡くなってからもう2年がたっていた。息を引き取った時はほとんど悲しさを感じなかったけど、夫の実家で、中国から持ち帰った髪の毛と爪を入れた箱に向かって手を合わせていたら、涙が流れた。時間をかけて、ようやく心を取り戻すことができた気がした。

 それから時々、夢の中に広が現れるようになった。病気に苦しんでいる様子は少しもなくて、こちらに向かってにこにこ笑ってみせている。朝目が覚めるたび、「会いに来てくれたのかな」と思い返して、うれしくなった。【川辺和将】=つづく