◇遺族と触れ合い、心境に変化

 さいたま市北区の関利雄さん(93)は旧陸軍少年飛行兵で戦闘機「隼(はやぶさ)」の操縦士だった。タイやシンガポールなどの南方で、米軍と身を削るような戦闘を経験した。「自分の手で敵機を攻撃し、誇らしい気持ちもあった」と振り返る。だが、3年前から自身が撃墜した米軍機の搭乗員遺族と触れ合う機会を得て、心境に変化が起きたという。

 東京の本郷生まれ。1940年、東京陸軍航空学校に合格し、熊谷陸軍飛行学校で操縦教育などを受けた。「戦闘機が活躍する映画が人気で、誰もが憧れた。操縦士になれるのはごく一部。うれしかった」と話す。

 43年に陸軍飛行第77戦隊に配属された。翌44年1月、ビルマ(現ミャンマー)近くで初めて戦闘に参加した。仲間の隼とともに上空6000メートルを飛んだ。寒さもあったが「怖さと緊張で体が震えた。歯もガチガチと鳴った」。

 45年初めごろから米軍爆撃機B29による空襲が激化する。シンガポールを拠点に敵機を上空で迎え撃った。2月1日には約20機が来襲。B29編隊から容赦なく弾が発射され、機体に「カン、カン、カン」と被弾する音が響いた。着陸後に機体を見ると8発命中し、うち1発は操縦席の計器に当たっていた。「弾が止まっていなければ、命はなかった」

 深く記憶に残るのは45年6月、インドネシア中部にあるスラウェシ島近くでの攻撃だ。「敵機接近」との情報があり、島の港にいる輸送船を護衛する任務に就いた。島の上空を飛行し、数百メートル下に米軍爆撃機のB24を発見した。約500メートル離れた位置から弾を撃ち込むと、敵機は火を噴いて下降し、視界から消えた。

 米軍の空襲などについて独自に調査しているさいたま市内の男性の仲介で、2014年にB24の搭乗員の遺族と知り合い、電子メールでやり取りを続けている。亡くなった米兵の名前など詳しい情報を知るにつれ、自分が撃墜した敵機の搭乗員にも家族がいて、戦後も苦しんでいることを知った。

 B24には10人が搭乗し、うち6人が死亡、4人が日本軍に捕らわれ処刑されたという。関さんは「90歳を超えて改めて、戦争が現実的なものになった。今は戦争を繰り返してはいけないという気持ちでいっぱい」と語る。

 戦後、各地で戦争体験を語り続ける関さんは、今夏も仙台市など県内外で講演会を開く。「体力が続く限り戦争について話したい。それが、亡くなった命に向き合うことにつながる」。【森有正】=つづく

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 ■ことば

 ◇隼(はやぶさ)

 旧日本陸軍の主力戦闘機。「一式戦闘機 隼」の略称。航続距離が長く、中国やインドネシアなどの戦闘で使われた。約5700機が製造されたとみられている。