◇命感じたおにぎり

 「戦闘らしい戦闘は一度もなく、飢えとマラリアで多くの仲間が亡くなった。我々は一体何のために、誰と戦っていたのか……」

 太平洋戦争末期の約2年間を陸軍兵として南太平洋・ソロモン諸島で生き抜いたみなべ町山内の梅農家、中田武男さん(96)は、部隊が壊滅した悲惨な戦地体験を振り返る。

 警察官などを経て1941年10月に陸軍に入隊した。「国のために死んでこい」と発破を掛けていた上官の中隊長が、出発直前、「絶対に死ぬな。生き延びる方法を考えろ」と耳打ちしてきたことが忘れられない。

 南方戦線への転属を志願し、43年7月、広島・宇品港を巡洋艦で出港、激戦地・ニューブリテン島ラバウルを経て、ソロモン諸島・ショートランド島に上陸した。

 ラバウルからの航行中には船団が米軍機の爆撃を受け、母艦「日進」が撃沈された。「海がごうごうと赤く燃え、まるで血の池のようだった」。積まれていた1年分の食料や戦車などとともに、1000人以上の同僚兵士が海に消えていった。

 2年以上に及ぶショートランド島でのジャングル生活は想像を絶するものだった。軍支給の麦飯を口にできたのは最初の数カ月だけ。食料が底を尽きると、木に登ってヤシの実を取り、煮詰めてかゆのようにして食べた。ヘビやトカゲ、カタツムリなども捕まえ丸焼きにして、命をつないだ。ライフル銃や手投げ弾を用いて魚を取った。限られた武器さえも、食料確保のために使わざるを得ないほどの窮状。「飢えが一番つらかった。食べられる物は何でも口にした」

 栄養失調やマラリアで多くの仲間は言葉を発することもなく、眠るように死んでいったという。中田さん自身、何度も死線をさまよった。記憶にある限り、戦闘で死んだのは、敵機の機銃掃射を受けた大阪・岸和田出身の若い上等兵1人だけだ。「母さんに会いたい、母さん……」と言い残し、絶命していく無念の姿は今も脳裏に焼き付いている。

 終戦を知ったのは、45年8月16日。敵機が上空からまいたチラシに「日本は降伏した。無益な戦争はやめろ」とあった。捕虜となり、翌年2月に帰国した。出征前に60キロ以上あった体重は35キロにまで落ちていた。120人の中隊で生き残ったのはわずか30人だ。

 神奈川・浦賀港に入港し、和歌山に帰る列車内で乗り合わせた30代ぐらいの婦人から「生きてますか?お疲れさまでした」とおにぎりを1個手渡された。白米のうまさ、梅干しの酸っぱさ、生きて帰国を果たせたうれしさで涙があふれた。

 「私が生き残ることができたのは、偶然の運と周囲に恵まれたからこそ。多くの人は理不尽な死を強いられた。戦争だけは絶対にしてはいけない」。力を込めて繰り返した。【稲生陽】=つづく

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 戦時下、人々は食料難に苦しみ、最前線の兵士たちも飢えで命を落とした。戦後72年の夏は、食の記憶をたどり、戦争の理不尽さと平和の尊さを改めて考えたい。