風車の国オランダに、信仰と商業の自由を求めるユダヤ教徒が集まった(写真はイメージ)

前回のコラムで1492年にスペイン王国から追放されたユダヤ教徒の多くが、ポルトガルやイスラム圏に逃避した理由と背景を述べた。その後のオランダでは新興宗教プロテスタントを信じる人々が、スペインからの独立という挑戦を試みる。

これを見て宗教と商業に対して、より寛容な風土を求める欧州のユダヤ教徒たちがオランダに集結していくことになる。今回、オランダが東インド会社設立に至る前夜までの流れをさらに追って行こう。

オランダはカルヴァン派の国となった

まず、オランダにユダヤ教徒達が再集結していった背景を宗教的な側面から探ってみよう。プロテスタントという新興宗教には、少なくともカトリックよりユダヤ教徒と共存し得る素地があった。筆者にはそう感じられる。例えばプロテスタント・ルター派は、言ってみれば聖書回帰主義(信仰義認)であり、旧約の民であるユダヤ教徒とは分かり合えるのではないかという期待があった。

そもそもギリシャ語やラテン語などで書かれた聖書は、翻訳の時点ですでにノイズとも言える教会の解釈やポジショントーク(自らの立場に有利な発言をすること)が混入されている可能性があった。聖書の原典はヘブライ語で書かれているのだから、こうしたノイズを除去して聖書とイチから向き合うためには、ヘブライ語の民であるユダヤ教徒が蓄積した研究に頼る必要があった。

プロテスタントの指導者マルティン・ルターは、ユダヤ教徒に対しカトリック教徒のように強制改宗を迫るのではなく、「旧約の民」とリスペクトを示せば彼らはやがて「真理(キリストの福音)に目覚めて」キリスト教プロテスタントに自発改宗すると期待した。カトリックによる強制改宗が「北風作戦」なら、ルターは「太陽作戦」を取ったといえる。

しかし、プロテスタントが旧約を尊重することとユダヤ教徒がプロテスタントに改宗することは、普通に考えればなんの関係もない。当然、そのような自発的改宗は起こることはなかった。ルターはこの奇妙な「太陽作戦」が上手くいかないことを悟ると、独りよがりな失望の念を激しく抱く。その後は一転して、品行下劣な表現でユダヤ教徒を攻撃する。ドイツキリスト教社会における近代的反ユダヤ主義の萌芽だ。

これに対し、オランダのキリスト教プロテスタントはルター派ではなく、スイス発祥のカルヴァン派が優勢だった。これは筆者個人の解釈だが、天職概念と予定説を中核とするカルヴァン派は、高い職能(プロフェッショナリズム、専門性)を重視するユダヤ教徒(スファラディ系の人々)とは、相性が良かったのかもしれない。

プロテスタントでもカルヴァン派が中心だったオランダの教会
プロテスタントでもカルヴァン派が中心だったオランダの教会(写真はイメージ)

なにより、商業と貿易の発展による「富国強兵」というオランダの至上命題が両者を近づけた。もちろん、異教徒である両者の間に目に見えないガラスの壁のようなものはあっただろう。ただ、それはすべての透過を拒否する鉄の壁でも、相手の顔が見えない曇りガラスでもなかった。


なぜオランダで共和制と連邦議会が芽生えた?

新興国家オランダは新興宗教プロテスタント・カルヴァン派の国家という点以外にも、いくつかの特徴がある。それは「分権主義」と「共和制」だった。オランダが位置した低湿地帯は、無数の水路で国土が細かく分断された、中洲のような土地の集合体だ。これはあくまで筆者の推察だが、このような地政学的事情がオランダが分権的な共和国を形成した理由の一つではないかと思える。

通常、分権国家や共和制は、広すぎる国土を効率的に管理するために必要に迫られて選択する統治形態だ。国土が決して広くないオランダで分権制や共和制が広がったのは、水路で細かく分断化された低湿地帯という地政学的特徴が少なからず影響しているのではないかと思われる。

経済力を持つ強い州がアムステルダムやロッテルダムといった都市を核として形成されていくと、国家としてのオランダの意思決定は複雑となった。これが足並みの乱れを招き、対スペイン独立戦争の屋台骨を揺るがす危険性がある。そこでオランダは7州の代表者からなる連邦議会を最高意思決定機関とし、意志の統一を試みていく。

    「聖霊の力を持って神の代理を自認する教会」と「軍事力を背景とした絶対君主」。キリスト教がローマ帝国の国教となって以来、1000年以上にわたって西洋キリスト教社会を統治(ガバナンス)してきたこの2つの統治機構を否定したオランダ。

    そして、オランダは議会による統治を目指すことになる。これは、やがて議会制民主主義へとつながる流れのひとつとなっていく。「神との契約」が「人の契約=社会契約」に再構築されていく時代の幕開けだ。

    もちろんオランダにも君主(国王)は存在する。オランダはスペインのフェリペ2世の君主制を否定した後、オラニエ家を祖とする新たな君主を擁立した。ただ、これはスペインカトリックからの独立の旗印であり、共和国統合の「象徴」としての性格が強かったと思われる。

    この点でオランダの国王は、多くの西洋キリスト教社会における絶対的君主とは成り立ちからして本質が異なるというのが筆者の理解だ。


    乱立した投資組合と過当競争

    政治体制と並行して、商業と貿易体制でも「分権的な発展」が進む。スペイン、ポルトガル、そしてイギリスと熾烈な植民地利権の競争を繰り広げていく中で、オランダの商人集団は、州単位でカーメル(投資組合)を設立。植民地貿易と私掠船団(海賊)を兼ね備えた貿易組織を形成していく。商業の世界でも「分権的」「共和的な」プロセスが進んだ。

    これが重大問題を招く。本来は各州のカーメル(投資組合)が一丸となって、スペイン、ポルトガル、そしてイギリスやフランスとの植民地獲得競争に勝利しなくてはならない。ところがオランダ共和国では各州のカーメル(投資組合)同士が競合し、過当競争に陥ってしまったのだ。

    これによりオランダの植民地ビジネスは身内で限界利益を削りあい、ほとんど利益が出ない状況になる。香辛料価格は暴落し、商業と貿易は資本の原始的蓄積を推進するための機能を失ってしまう危険があった。これがオランダ東インド会社設立の直接的な引き金に繋がっていく。

      オランダ東インド会社の成立過程について本格的に踏み込む前に閑話休題。少し映画の話をしよう。大航海時代を舞台とした海賊冒険活劇「パイレーツ・オブ・カリビアン」は多くの人が夢中になった映画だろう。筆者もその一人だ。ジョニーデップ扮するくせもの海賊、ジャック・スパロウが巻き起こす海の一大冒険活劇だ。一瞬たりとも観客を飽きさせない興奮とスリルの連続で、海賊映画の金字塔だろう。

      「個性派クセつよキャラ」のジャックと対比を為すのが、超絶イケメンの「白馬の王子様キャラ」だ。オーランド・ブルーム演じる鍛冶職人のウィル・ターナーである。ターナーの父親(ビル)は、ジャックと共に戦った海賊だった。ジャックにそのことを知らされたターナーは気色ばむ。


      「パイレーツ・オブ・カリビアン」は貿易商人

      ウィル:「父を知っているのか?」

      ジャック:「ああ、だが奴の呼び名はビル・ターナーではなく、ブーツストラップ・ビル(靴紐のビル)だ。いいやつで、いい海賊だった」

      ウィル:「父が海賊だと?法を重んずる貿易船の船乗りだ!」

      ジャック:「やくざな海賊だよ・・・」
      ウィル:「違う!父は海賊じゃない!」

      母親から「父親は世界を股にかけた立派な貿易商人だった」とでも聞かされて育ったのだろうか。ターナーは激怒し、船の上でしばし剣劇を演じる。

      彼の父親(靴紐のビル)は、残念ながらジャックの言う通り海賊だった。映画の続編で、より重要な役割で登場するのはご存知の通りだ。しかし、貿易商人と海賊の関係を「正義と悪」「光と闇」のように、はっきりとした勧善懲悪の構図で捉えるのは史実としては恐らく間違いだろう。

      この映画の背景は17世紀後半から18世紀くらいだろうか。確かにこの時期には、海賊と貿易商人は異なる存在としてよりはっきりと対立していたかも知れない。しかし、少なくともオランダ東インド会社誕生前後の大航海時代初期はそうではなかった。貿易船は海賊船であり、海賊船は貿易船だったのだ。

      ジャック・スパロウのような海賊も「貿易商人」だった(ディズニーホームページより)
      ジャック・スパロウのような海賊はまた「貿易商人」でもあった(ディズニーホームページより)

      西洋キリスト教社会が植民地獲得の大競争時代に入った当時、敵国の貿易船を襲って積み荷を略奪するのは、貿易船団の重要な役割だった。「靴紐のビル」のような海賊が同時に立派な貿易商人だったとしても、それが十分あり得た時代だった。

      こうした貿易船は「私掠船」と呼ばれた。オランダの貿易船はスペインの船が植民地から強奪した金や銀を満載して帰路についているのを発見すると、襲撃して積み荷を強奪した。こうした私掠行為によって得られた財産の一定割合を、私掠船団が成功報酬として受領することが公式に認められていた。

      もちろん、オランダの船がスペインやポルトガル、イギリスに襲われることもあった。海賊行為は貿易船にとって重要な副業であり、ボーナスの稼ぎ時だったのだ。

      大航海時代の幕開けは、大海賊時代の幕開けでもあった。多くの起業家、野心家が、大航海時代の「貿易王」になることを目指した。しかし、これは「海賊王」になることとそれほど違わなかったかもしれない。自らが襲うつもりはなくても、襲われたら自衛しなくてはならない。貿易と戦争は一体だった。荒々しい冒険活劇の時代である。


      貿易と海賊は表裏一体だった

      ちなみにこの大航海時代初期の海賊で、最も歴史に名を馳せたのは誰か。筆者の中では、それはやはりイギリスのフランシス・ドレークである。10歳を過ぎたころにはすでに貿易船に乗っていた生粋の海の男だった。自ら船長として独り立ちした矢先にスペインの私掠船に襲撃され、命からがらイギリスに逃げ帰り、生涯をかけてスペインへの復讐を誓う。

      1570年には私掠船団というより「海賊船団」として本格的に活動し、数々の襲撃を成功させて「海賊王」となる。イギリス人として初めての世界一周航海にも成功した。1588年、その天才的な操船能力と戦闘能力、統率力を買われたドレークは、なんとイギリス艦隊副司令官に任命される。

      海賊を提督に任命するイギリスという国は、時としてとても大胆な意思決定をするのだ。ドレークは天下分け目となった世紀の海戦「アルマダの海戦」で、ついにスペイン無敵艦隊を打ち破る。海賊という出自のためだろうか、彼は名目上「副司令官」だった。

      実際には全艦隊を統合指揮していたのはドレークだったという説が有力だ。スペインは無敵艦隊の敗北とともに、栄華を極めたその黄金時代は黄昏を迎え、世界の主役の座から去っていく。1492年にスペインがユダヤ教徒を追放してから、およそ100年後のことだった。

      (この項続く)

      文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)