まもなく卒業する大学4年生。未曽有の事態に直面して、それぞれの想いや葛藤を抱えた1年だったと思います。4年生はチームの顔。たとえどんなことがあっても、最後までやり切る。4年生の宿命です。この1年、自分の思い通りにいかずとも、最後までチームマンに徹した選手はたくさんいました。そんな中から、1つのストーリーをお届けします。

 27-33。大学戦選手権準決勝、早稲田大学に敗れ、帝京大学のシーズンは幕を閉じた。出場した23人の中に、北村将大の名前はなかった。

 「怪我じゃないです」。 

 潔く、北村はそう言い切った。

9連覇と王座陥落

 小学校2年生の時、兵庫の西神戸ラグビースクールでラグビーと出会った。高校は奈良の御所実業に進学。名将・竹田寛行監督のもとでラグビーと向き合った。
 帝京大では、1年次に日本一を経験。現・日本代表の松田力也と入れ替わりで入学した北村は、比べられる重圧と常に隣り合わせだった。それを乗り越えて前人未到の9連覇を成し遂げた。10番を付けた北村は、ピッチ上でその喜びを噛み締めた。

「上級生の先輩方が支えてくれたおかげです。特に同部屋の尾崎さん(晟也・現サントリーサンゴリアス)は、ラグビーの話もするけど、一緒にドラマを見たり、バラエティー番組を見たり。リラックスできました。堀越キャプテン(康介・現サントリーサンゴリアス)には、毎試合『思い切ってやれよ』と言ってもらっていました。そういった部分が大きかったです」。

 しかし、その翌年。選手権の準決勝で、帝京は天理に敗れる。10連覇を達成することはできなかった。北村は開始6分に脳震盪のアクシデントに見舞われ、退場を余儀なくされた。チームが負けていくのを、ただ眺めることしかできなかった。

「気づいたらベンチの上に座っていて。ジャージを託されているのに、チームに何もできなかったことが本当に悔しかったです」。

 次のシーズンも、ほぼすべての試合に出場したものの、チームは対抗戦3位の結果に終わった。選手権は流経大に敗れ、3回戦敗退。王座を奪還することはできなかった。

迎えたラストシーズン

 今年こそは、必ず。迎えたラストシーズンは、思ってもいなかった展開になる。4月に緊急事態宣言が発表されてから、チームは一時解散。北村は神戸の実家に戻った。それでも、できるトレーニングを続けた。リーダーはzoomを使って、何度もミーティングをしたという。チームが再集結できたのは、7月のことだった。そこから菅平合宿を経て、帝京は対抗戦に乗り込んだ。

 最後の対抗戦。だが、北村の名前は、22番に見ることが多くなる。10番を付けていたのは、2年生の髙本幹也。自分の代名詞だった真紅の10番を、下級生が着ている。少なからず、悶々とした想いがあったはずだ。それでも、北村はどうすればチームが勝利に近づくのかを考える。

「キックの練習は、幹也と一番したと思います」。

 ライバルと距離を置くのではなく、チームが勝つことを最優先に行動し続けた。たとえ、自分がメンバー入りできなくても、チームのためにできることをやる。リーダーとして、4年生として、北村は役割を全うした。

チームのために

 そして、冒頭の試合。北村はサポートに回った。ウォーターボーイを務め、外から見た状況、インカムに流れるコーチ陣の指示を伝える。チームが少しでも勝利に近づけるように、裏方に徹した。

「めちゃくちゃ悔しかったですよ。本当に悔しかったです。葛藤というか...(自分の)綺麗な部分じゃないです。でも、4年間、岩出監督のもとで勉強させてもらいました。自分のことは整理して、外には出さない。チームが勝つために、自分にできることをやろうと思いました」。

 チームは勝つことができなかった。北村にとって、結果も、評価も、決して満足できるものではなかっただろう。けれども、最後の瞬間まで真摯にやり切ったその姿勢は、まさに4年生だった。

「キツいことも、しんどいことも、仲間と一緒に乗り越えてきました。『仲間がいたから』だと思います」。

 3月からトヨタ自動車でラグビーを続ける。4年間、まっすぐにやり切ったその背中を見て、学んだ後輩も多いはずだ。これからどんなラグビー人生を歩むのだろう。モスグリーンはもちろん、桜の10番を纏う北村が早く見たい。


同期の奥村翔・金隆生とともに
写真提供:帝京大学ラグビー部(撮影者:志賀由佳、藤本蕾)文:中矢健太


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