3. 荷為替金融(にがわせきんゆう)

荷為替金融とは、簡単に言うと、荷物の運送証券と代金を取り立てる為替手形がセットになっていて、さらに、その為替手形を割り引く(販売代金の先払い)金融がついているものです。先に解説した生糸売込商の活動は、生糸生産地に銀行が設立されることによって、以下のような荷為替金融の形態になっていきました。逆に言えば、明治初期に各地に銀行が整備されていったのは、資金仲介業務もさることながら、こうした為替業務に対する大きな需要があったためとも言えます。

江戸期の両替商による高度な為替業務経験をベースに、明治初期には、こうした荷為替金融が生糸生産地に銀行が設立される形で発展していきました。

4. 弗屋と取引所

1862(文久2)年に肥前屋小助(個人名の様だがこれは屋号で、高島嘉右衛門等の店)が神奈川奉行所の許可を得て横濱で両替商を兼業したのが弗屋の最初です。

彼らは、生糸売込商と輸入商の間を往来し、外国銀貨(メキシコ銀)と日本銀の需要を聴き、その双方をうまく繋ぐ形で外為業務を行っていました。生糸売込商(輸出業者)からはなるべく安くメキシコ銀を買い取り、輸入業者にはなるべく高くメキシコ銀を売り付けて、そのスプレッド分を儲けるのです。また、そういう弗屋間での取引仲介を専門とする才取という業者も現れます。

1868(明治元)年に、両替商達は話し合って、田中平八の店に「両替会所」を設立します。田中平八は今の長野県駒ヶ根市出身です。幕末には飯田の製糸家である山村屋とのビジネスに従事します。山村屋は元々は飯田糸を京都に売り込む「登せ糸」取引に従事していましたが、田中平八を通じて「濱売り」を行なうなどビジネスの幅を広げます。田中と山村屋との書簡に「生糸売込商田中平八」と記録が残っています(『牧野忠夫家文書』、『横浜市史』資料編第1巻)。

田中は、地方の財力に乏しい若者だったところから、原や茂木に続く横濱を代表する生糸売込商で弗屋を兼ねる商人となる、まさに明治の立身出世伝を代表する人物の一人です。彼は後に、東京株式取引所の設立に関わることになります。その生涯に何度か様々な取引所の設立に関わるいわば、取引所設立・運営のプロでもあり、この両替会所が最初のケースになります。

また、同じ長野県で今の高森町出身で横浜の弗屋(横浜組と後に言われる)のリーダー的存在となる今村清之助や、後に軽井沢の開発者となる雨宮敬次郎もこの両替会所のメインプレイヤーとなりました。両替会所では、輸出入の実需だけではなく、相場の変動に乗ずる投機的な取引も行われていました。

5. 横濱金穀取引所の設立と閉鎖

1872(明治5)年に、明治政府公設の横浜金穀取引所が開設されます。これは、米の商品取引所と外国為替の取引所を合わせたもので、田中平八は頭取の一人です。実はこの横浜金穀取引所が開設後間もない1874(明治7)にある相場戦をきっかけに閉鎖されます。この閉鎖も、後の東京株式取引所の設立に影響を与えたと考えられます。

香港上海銀行にフィドンという中国系のディーラーがいました。彼は横濱金穀取引所でドル売りを仕掛けてきます。田中平八は逆の思惑で今村清之助等と買い向かいます。資金量に差があった為か、フィドンの思惑通りに相場が動き、田中等の資金が尽きたところで、田中平八はその権限を利用して、横浜金穀取引所の定款(取引ルール)を一夜にして変更し、取引に必要な銀の現物を担保として横濱の取引所に提示することを求めます。これが原因で最終的にフィドンと田中平八等の取引は引き分け状態になるのですが、英国の怒りと不信は激しく、この取引所を閉鎖することとなったのです。

取引所の経営に携わる者がその取引所で取引を行うことの弊害等について、当時大蔵省で取引所条例の制定に奔走している大隈重信や福地源一郎等に与えた影響は少なくなかったであろうと考えらえます。(次回に続く)

※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。

(東証マネ部!編集部)

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