NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公であり、新1万円札の顔になることでも注目されている渋沢栄一。「近代日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢の凄さを知るため、日本の経済史に詳しい、経済学者の横山和輝(よこやま・かずき)先生にインタビュー。後編では、渋沢栄一の人物像や思想を掘り下げ、その生き様から、現代を生きる私たちが学ぶべきヒントを探ります。

500社以上の会社設立に携わった渋沢の“傾聴力”

――前編では、明治時代の金融システム構築に携わった渋沢について伺いました。後編では、保険会社、ホテルなど500以上の企業の設立に関わったベンチャーキャピタリストとしての顔について伺えればと思います。横山先生は、実業家・渋沢栄一の凄さを、どう考察されますか?

横山和輝(以下、横山):あえて一つ挙げるとすれば、ビジネスチャンスの機会を独り占めせず、人脈を広げていたところでしょうか。渋沢は大蔵省で制度整備に従事したあと、すぐに経営者として活躍します。大蔵省出身とあって、政府と、いわば“ズブズブの関係”になることも可能と言えば可能な立場でしたが、彼はそれを避けました。もちろん当然の判断ではありますが、こうした姿勢が信頼につながり、渋沢の人脈は官民にわたり幅広く構築されました。

――その姿勢の背景には、何か理念があったのでしょうか。

横山:彼は、特定の人だけが儲かる状況をよしとせず、「多くの人が日本の産業化に参加し、経済発展の恩恵を受けられる社会にしたい」という理念がありました。そのため、経営者として事業の仕組みを作ったら、すぐに経営を別の人に譲り、気づくと別の会社の設立時に立会人として参加している、というように、まるで橋渡しするかのごとく企業を設立したように思えるケースもあります。渋沢は、自分の理念に従い、チャンスを独り占めしなかったんです。

――なんとも徳の高い人ですね。

横山:徳の高さゆえに、ビジネスパーソンとして成功した側面もあるでしょう。渋沢は、500社以上の会社の設立に関わっているわけですが、トップマネジメントで組織を牽引するというよりは、経営者の相談相手、あるいは経営陣の調整役でした。強い発言力を持つ立場でありながら、渋沢は経営陣を集めて「あなたたちはどう思う?」と意見を求めつつ、経営方針をコーディネートしていました。人脈があるからこそ情報も豊富ですから、アドバイザーとしては適任かもしれませんね。

――経営に携わるともなれば、理想やこだわりも強くなりそうですが、そうしたことに固執しなかったんですね。

横山:ただ、渋沢自身にこだわりがなかったわけではありません。たとえば、渋沢は「合本主義」という言葉で自分の理想を表していました。「資本主義」の考え方のベースが利潤追求だとすると、「合本主義」は利益追求と道徳は不可分だとみなすものです。そして、人々が合本主義のもとで、幸福に暮らしていくにはどうするべきか、という社会思想的な観点を持っていました。結果として、さまざまな人が経済活動に参加し、利潤追求と社会貢献を達成できるような基盤を作ることに専念したところに、彼の社会思想と行動力が見てとれます。

渋沢の献身的な姿勢を育んだ父母の存在

――ガツガツ稼ぎたい人も、仕事を通して社会貢献したい人も、それぞれがそれぞれの理想を叶えられる舞台を作ることに、こだわっていたんですね。ちなみに、渋沢は現1万円札の顔である福沢諭吉とは、ほぼ同年代(福沢が5歳年上)ですが、横山先生から見てどのような違いがありますか?

横山:両者はだいぶ違いますね。もちろん日本が欧米から一人前とみなされるためには、産業立国が大事だという考え方は共通していますが、経済を担う教育についての考え方は実に対極的です。

たとえば、福沢は『学問のすゝめ』の中で、「無学なる者は貧人となり下人となるなり」という言葉を残しています。これは、なぜ勉強しなければいけないのかと言えば、貧乏にならないためであり、国家を支える人間が必要だからという考え方。どちらかといえば、エリート思想の持ち主です。それはそれで教育が持つ重要な一面であり、福沢はそれを強調する立場でした。

――かたや、渋沢はどのような考えだったのでしょうか?

横山:渋沢は、教育に関しても現場目線でした。そもそも勉強したいのにできない人がいることに、問題意識を持っていました。学校に行きたくても親の仕事の手伝いをすることもあれば、子守りを任されることも珍しくないわけです。そうすると勉強のタイミングは失われますし、そもそも学ぶことへのモチベーションが下がってしまうのも、仕方がありません。

この点については、勉強の機会を広げることに尽力した渋沢の功績は大きなものでした。たとえば、日本女子大学の設立など、女性が勉強できる環境を整えました。こうしたことから、福沢の思想とは違った視点で、日本経済を支えようとした意思を感じ取れます。

――渋沢のそうした考え方は、どのように育まれたと思われますか?

横山:儒学、なかでも国家的危機をいかに克服するかを説いた「水戸学」を学んだ影響は、大きかったと思います。当時、村落で儒学を学ぶ人たちにとって、「世の中を良くしていくためにはどうしたらいいかを考える」という儒学の思想は、生活や経済の具体的な改善を考えるうえで、切り離せませんでした。渋沢は、その儒学を子どもの頃から学んでいました。ちなみに余談ですが、10代になり父親の家業を手伝うようになりますが、小遣いで桐の本箱を購入するなど、読書を辞めることはなく、成長してからも向学心は失われなかったようです。

――なるほど。成育歴が影響しているということですね。

横山:はい。また、彼の人となりを理解するうえで、父母の存在は欠かせません。とりわけ母親が献身的な人だったようで、村に困った人がいたらすぐに助けたそうです。父親も家業である藍玉の製造販売や養蚕を通して、村に貢献していました。そうした両親の背中を見て、「人のためになることをするのは当たり前であり、それが自分の喜びだ」と自然に考えられるようになったのだと思います。

渋沢の“選択肢を生み出す姿勢”は学ぶ価値がある

――では、現代に生きる私たちが、いま渋沢を知る意味について、どうお考えでしょうか?

横山:ビジネスを通じて社会と関わる中で、直面する課題は数多くあります。そこで、渋沢から学べるヒントがあるとすれば……、「観察眼を養う」ということかもしれません。渋沢は、意見の違う人をいかに同じ船に乗せ、同じゴールを目指すように調整する力が、ずば抜けています。

いまのご時世、好きな仲間同士で集まりやすくなったとはいえ、利害が対立する場面はあると思います。そのときに、当事者たちが何を大事にしているのかを見極める、渋沢のような優れた観察眼は、とても重要になるでしょう。彼が残したエピソードは、現代のビジネスパーソンの参考になるものが多いと思います。

――もしかしたら、人に対する好奇心が強かったのかもしれませんね。

横山:そうかもしれません。昨今、個人の不完全さを集団で攻撃するようなことが横行していますが、渋沢は人の不完全さ、さらには集団の不完全さも受け入れたうえで、「まずは皆にチャンスを提供できないか」と考えていたように思います。

そして、「どうすれば皆が利潤追求や社会貢献に参加できるか」を考える中で、彼は「価値あるものを生み出す姿」を尊重していました。だからこそ、取引所の設立にあたっても、不特定多数の人が、ビジネスで新たな価値を生み出そうとする人たちを応援し、同時にビジネス参加のきっかけになる制度設計を、大切にしたのだろうと思います。

(末吉陽子/やじろべえ)

<前編>
渋沢栄一が調整役となり成立した「銀行制度」「株式会社制度」が明治以降の日本の発展を支えた