『新一万円札の顔』『大河ドラマの主人公』など近年、脚光を浴びている渋沢栄一。

「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、実業家、官僚、社会活動家など様々な顔を持つ渋沢だが、当社東京証券取引所の前身である東京株式取引所を設立したことはあまり知られていない。

この度、そんな東証とも関わりが深い渋沢栄一について、特設展示を実施している。しかし、コロナ禍の影響で来場型の見学ができないことから、自宅からでも特設展を体感できるようWEB番組「Fの遺伝子」にて、特設展の様子を配信。当該番組では、出演者のももいろクローバーZ(百田夏菜子、玉井詩織、佐々木彩夏、高城れに)とロバート・キャンベル氏が一緒に渋沢栄一を学んでいく。

WEB番組「Fの遺伝子」はYoutubeチャンネルから視聴可能なので、チェックしてほしい。

本記事では、「渋沢栄一 特設展」の内容を紹介していく。動画と併せてご覧いただければ幸いだ。

渋沢栄一の生い立ちとフランス派遣

渋沢栄一は1840年に今の埼玉県深谷市血洗島に生まれた。ここは交通の要所であり、早くから貨幣経済が浸透した地域でもあった。渋沢家は地域を代表する百姓で、栄一の生家は村内で渋沢を名乗る宗家であり、栄一の父、市郎右衛門元助は、麦作、養蚕、さらに藍玉(藍で作る染料)の販売で家業を繁栄させた。栄一はその父の影響もあり、5、6歳のころから学問の素養を身につけた。

1866年に15代将軍に慶喜が就任すると、渋沢栄一はフランスで開催されるパリ万博へ随行員として派遣された。そこで、欧州各国の先進技術や社会・経済の組織・制度を目の当たりにした。特に、印象に残ったエピソードとして、「ベルギー国王自身による熱心な営業」と「鉄道株の購入」を挙げている。

一点目は、ベルギー国王レオポルドからベルギー産の鉄の熱心な売り込みを受けたことだった。国王自らが積極的に商売に関わることに驚いたという。「士農工商」の言葉に表されるとおり、当時の日本では商人の地位が低かったのでなおさらだ。

二点目は、鉄道株を購入したこと。帰国の際に売却し利益を得た。欧州で熱を帯びていた株式会社設立ブームの一端を体験し、彼が以前から思い描きつつあった合本(がっぽん)主義に強い影響を与えた。

※合本主義:公益を追求するという使命や目的を達成するために最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方

第一国立銀行の設立

フランスから帰国した渋沢は、1869年から大蔵省で働き始める。官僚として、税制改正や鉄道の敷設等、新しい社会の基盤整備に邁進した。米国のナショナル・バンク(国法銀行)制度に倣った銀行制度を日本に導入する国立銀行条例の制定に深く関わった。ナショナル・バンクは有限責任が認められた完全な株式会社であったことから、法的に株主の有限責任も担保する必要があった。

こうして制定された国立銀行条例に基づいて1873年に、主に小野組と三井組の出資による「第一国立銀行」が設立された。これは、株主の有限責任が法的に担保された日本で最初の株式会社となった。

渋沢は同年に大蔵省を退官し、この銀行の頭取となり、後に長きにわたり、この銀行の頭取を務める。渋沢にとって近代的な銀行とは、使われずにいる資金を社会に必要なビジネスに流し込める点で、合本主義の要となる最も重要な会社だったのだ。

東京株式取引所の設立

渋沢は、渡仏中に、銀行と取引所が一国の経済の要であると気づいていたが、第一国立銀行設立時に株主の公募を行った際、100万円の予定に対し、45万円弱の資金しか集められなかった。このことから、証券を通じて資本を簡便に調達するために一層、取引所が必要との思いを強くし、欧米各国の取引所を研究し、株式取引所の設立を強く訴えた。明治政府も、法的な整備がないなかでの、秩禄(ちつろく)・金禄公債等の売買の拡大等から、公的な証券取引所の設立を急いだ。

明治7年には仏人お雇い外国人顧問であるボアソナードによるロンドン取引所を参考にした株式取引所条例が制定されますが、日本の実態にあっておらず空文化した。

渋沢は大蔵省や各方面との調整を行う等、この株式取引所条例の修正の中心的役割を果たし、1877年に東京株式取引所設立を請願し、認可されている。1878年に新しい株式取引所条例が制定され、同年、これに従って東京株式取引所(東株)が設立された。東株設立後、渋沢はその経営陣から身を引いた。これは、東株で取引される第一国立銀行の頭取でもあり、利益相反の恐れがあるからだと渋沢は述べている。

1878年の株式取引所条例では、1877年のものとは異なり、仲買人(なかがいにん。現在の証券会社)の身元保証金や取引の証拠金が大幅に軽減され、堂島米会所で行われていた帳合米取引と同じく定期取引における差金決済が可能とされ、取引所は会員組織ではない株式会社組織となった。初期の株主には、仲買人以外に、多くの渋沢人脈の株主が加わり、市場の経営者と市場のプレーヤー(仲買人)が分離される形となった。

企業支援家としての活動

渋沢は日本最初の企業支援家と言えるかもしれない。第一国立銀行を皮切りに、生涯で500以上の企業の設立に関わったとされている。

その中には、王子製紙、清水組(現:清水建設)、東京海上保険(現:東京海上日動火災保険)、帝国ホテル、大坂紡績(現:東洋紡)、日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)、日本郵船、東京瓦斯(現:東京ガス)、東京電灯(現:東京電力)、大日本麦酒(現:アサヒビール、サッポロビール)など、現代の日本を代表する企業が多く含まれる。

また、企業支援は、社会福祉分野や教育分野にも及んだ。

社会福祉分野は、組織的・継続的に行う必要があり、経済的合理性を持った事業として運営されるように設計した。例えば、東京養育院(現:東京都健康長寿医療センター)や中央慈善協会(現:全国社会福祉協議会)がある。教育分野では、一橋大学、東京経済大学、日本女子大等への関与が知られている。

渋沢は1909年、古希を機に主な企業などの役職を退くのだった。

最後に

上記に述べてきたとおり、渋沢栄一の功績は多岐にわたるのだが、彼が日本にもたらした大きな功績は「世の中のために力を合わせて事業を行う方法」を創ったことだった。国家繁栄のために抱かれた様々な夢を実現するため、ひとりの人間では成し得ない大きな事業を多くの人が助け、協力しあう制度を創ったのだ。

その一つが、当社東京証券取引所の前身である東京株式取引所。新たな時代に転換しようとしている現在、日本を動かす原動力を数多く作ってきた渋沢栄一について本記事を通して知っていただければ幸いだ。

(東証マネ部!編集部)

<あわせて読みたい!>
新一万円札の顔、渋沢栄一ってどんな人?