前回「開発ストーリーダイジェスト:ホンダ・ビート」を紹介した。ビートは軽オープンカーという新境地を開拓したものの、1996年には販売が終了してしまった。しかし、その独創的なキャラクターと走り味にはファンが多かった。そして、2015年に後継として「S660」が登場した。約20年のブランクを経ての開発に伴った苦労とは? REPORT:ニューモデル速報編集部

 「ホンダ・ビート」が開発された経緯を簡単に振り返ると、R部門と称するコンセプトチームが“遊び”のためのクルマとしてまとめていたアイデアが社長の目に留まったことから開発がスタートしたのだが、実は「S660」も似たような経過を経て開発がスタートした。

 本田技術研究所の設立50周年を記念した新商品提案企画というコンテストが行なわれたのだが、これに当時はモックアップ製作を担当するモデラーだった椋本陵が応募したのがはじまりとなった。ホンダがもっと元気になってほしいことと昔のようにカッコ良くてワクワクするスポーツカーが欲しいという想いから提案した企画は、応募総数約800件の中で1位に輝いた。そのご褒美として1/1のモックアップをつくったが、パイプフレームにカーボンのボディ、軽トラのエンジンと足まわりを用いて自走できるクルマを作るほど盛り上がった。そして、そのクルマの存在が社長の耳に入り、試乗を経て、開発が現実味を帯びることとなり、言い出しっぺであることからLPLとして当時22歳の椋本陵が抜擢された。また、補佐する開発プロジェクトリーダー(PL)も社内公募で集められ、強い想いを抱いた若者が選抜された。

 しかし、プロジェクトチームの発足式からわずか数日後に東日本大震災が起こった。栃木の研究所は壊滅的なダメージを受け、立て直しにはとんでもない費用が掛かるため、S660のプロジェクトは白紙に戻るだろうと思ったという。だが、研究所の役員は復興後のモチベーションを考えて、“この企画は絶対に止めない、前に進むことを考えろ”という指示がすぐに来たという。

 かつてNSXやビートでミッドシップの開発を成し遂げたとはいえ、S660も苦労は尽きなかった。開発当初は既存のものを流用できないか検討したが、それでは普通のクルマになってしまう。また、椋本LPLを含めた若いPLたちが“小さくても本当に楽しい本物のスポーツカーをつくる!”と毎日意気込んでいるため、アームを含めてすベて専用のものとなった。

 けれども、際限なくコストは掛けられない。初心者も上級者も“誰でも手頃に”がコンセプトなため、手に余る速さは不要だが、痛快なハンドリングマシーンであることを追求する考えにブレはなかったが、手頃で安いことを追求すべきか、妥協なく本物のスポーツカーを作って相応の売価をいただくかは悩みどころだったという。

 そんな「S660」では生産も課題だった。スポーツカー、ミッドシップ、オープンである「S660」は、最大限まで効率化された主力の量産ラインではつくれなかったのだが、軽商用車のほか、特装車などが得意な八千代工業に白羽の矢が立ち、世に送り出されていくことになった。