「旧日本陸軍 九五式軽戦車が里帰り・・・」というニュースは[当Webモーターマガジンで以前に紹介]したが、旧陸軍の九五式軽戦車が「防衛技術博物館を創る会」主催のクラウドファンディングによって動態状態で帰国し、乗りものファンの間で大いに話題になった。帰国までの経緯と火力については他に譲るとして、ここでは九五式の車輌的概要を解説したい。

国産史上、もっとも量産された主力戦車

まず九五式軽戦車は第二次世界大戦(WW2)終了までに2378輌と、国産史上最も量産された主力戦車である。この台数は現在自衛隊の主力戦車である10式:126輌、90式:341輌、74式:873輌(すでに退役分を含む)の合計1340輌より1000輌以上も多い。同期に上位機種として量産された九七式中戦車の2123輌と合わせると、なんと4500輌もの戦車を配備したわけで、個人向けの乗用車などないに等しい国内自動車産業の当時、突出した生産台数だったことがわかる。

九五式の名称は、有名な海軍零式艦上戦闘機の名称同様、戦前元号と併用された「皇紀」の年号で、皇紀2595年=西暦1935年(昭和10年)に制式採用されたことを示す。1943年まで実質7年間で、三菱重工業を主力に相模陸軍造兵廠、日立製作所など6社で2378輌もの九五式が製造され、酷寒の中国東北地方から高温多湿の南方諸島まで広範な戦線で運用された。

当時の戦車としては標準的なサイズか

九五式軽戦車は、名称や動画・写真からも分かるように、乗員と比較してもワンボックス車のサンルーフから身体を乗り出している程度の小ささだ。いかにも資源小国、後発工業国の戦車という人もいるようだが、実はこの時代=WW1とWW2の間の戦間期(1919〜39年頃)においては、標準的な軽戦車だった。

WW1で高い可能性を得た戦車は、列強各国で開発が進み、当初は[以前に紹介した「多砲塔戦車」]という陸上戦艦型が花形だったが、高コストや出力不足等の不具合が露呈し、小型で機動力ある軽戦車が注目された頃である。

その先駆けになったのがルノー FT-17軽戦車(1917年)で、装甲や火力を犠牲にしても、死角のない全周旋回砲塔や、機関室/戦闘室/操縦室の分離、良好な運用性など現代戦車に通じる基本構造が誕生した。もちろん、安価で量産性が高い事も大きな特長となっている。

さらに1928年、イギリスのヴィッカース 6トン戦車は、自国で制式採用されなかったにもかかわらず列強各国に輸出され、多くの国が配備しその後の軽戦車の標準型になった。

軽戦車としての性能は見劣りするものではなかった

日本陸軍もルノーやヴィッカース戦車を大量輸入し、重装甲車や八九式軽戦車(後に中戦車)開発に反映させている。九五式が登場した当初、戦車の運用目的は「戦車戦」ではなく歩兵支援だった。しかし歩兵の移動がトラック主体になり、最高速度が25km/hの八九式中戦車ではまったく用をなさなくなった。九五式はまず最高速40km/h強、巡航速度30km/hを実現した。

また八九式が軽戦車の予定だったにも関わらず(まだ国産の中・重戦車は実用化できていない)装備の改良をするにつれ重量が12トンを超えてしまい、輸送・揚陸・渡河や敵国とする中ソの泥濘地走破性も難があり、7トン程度の軽量化要求も満たした。

高速/軽量化と引き換えに主武装(36.7口径 37mm戦車砲)と装甲(最大12mm)は犠牲となったが、配備された当初は欧米ソの軽戦車と比較して、特に見劣りするものではなかった。一例だが、同期で有名なドイツ軍の2号戦車(8.9トン)は、主武装が55口径 20mm機関砲、前面装甲が15mm、最高速40km/hだった。

独自のエンジン形式を採用

特筆すべきはエンジンで、先進国である欧米の戦車が水冷ガソリンエンジンを使用したのに対し、空冷ディーゼルエンジンを搭載している。三菱A6120Vdeの名称どおり、空冷・6気筒・120hp・直列・ディーゼルという独自の形式だ。排気量は14300cc、最大出力120馬力というのは同期の欧米戦車と比較して見劣りしない性能だった。

この独自なエンジンは、ガソリンエンジンに比べ圧倒的な燃費と燃料費の良さ、ディーゼル特有の電装品の少なさ、空冷による部品点数減少=構造単純化など、当時の工業力を補う大きなメリットだった。戦闘現場でも、燃費や整備性の良さ、火炎瓶攻撃に対する耐性、劣悪燃料や代用燃料が使用でき故障も少ないと高評価だった。ただしエンジンオイルは漏れが多く、かなりの消費量だった。

始動はセルモーターのみで、手動クランクは装備されていないため、非常時は押し/引き掛けだったという。寒冷な中国戦線では、とくに始動が大変だっただろう。

戦車の劇的進化と悲劇

以上のように制式採用から初期の配備までは、欧米軽戦車と比較して遜色ない性能と言えたが、WW2開戦前になると戦車(とくにソ連やドイツ)は日進月歩で巨大化+高性能化したのに対し、日本は基礎工業力と資材不足から大きく進化が遅れた。

とくに最大でも12mm、ほとんどが10mm未満しかない装甲は脆弱で、敵の戦車砲どころか12.7mm機関銃や歩兵小銃の徹甲弾でもハチの巣にされる始末だった。その逆に短砲身の37mm戦車砲と劣悪な砲弾は、次々投入される敵の新型装甲車両にはまったく無力だった。

上位機種の九七式中戦車とともに2000輌を超える配備数ではあったが、酷寒の中国から高温多湿の南方諸島に至る広大な戦線では台数も足りず、後継機も量産/配備されぬまま「やられ役戦車」のイメージが定着して終戦を迎えるのである。

戦後は車輌的には小破の個体が相当数放棄され、多くの激戦地で今も戦争遺産として残っている。この4335号もその1輌で、数奇な経緯をたどりながらもオリジナルエンジンで走行可能な状態で「防衛技術博物館を創る会」の尽力により帰国した。(動態保存車輌は2台現存する)

「戦争体験者はやがていなくなるが、兵器は産業技術遺産として後世の人々に戦争の真実を語り続ける」と語る、防衛技術博物館を創る会の小林代表(以前、[キューベルワーゲン]/[シュビムワーゲン]の回にも協力いただいた)の考えは重要なことだと感じる。ぜひ、この小さな戦車を見て客観的に当時の国力を知ってほしいと思った。(文と撮影:MazKen、取材協力/画像提供:防衛技術博物館を創る会)

●制式採用:昭和10年(皇紀2595年)
●全長×全幅×全高:4.30×2.07×2.28m
●重量:自重6.7トン/全備重量7.4トン
●懸架方式:シーソー式連動懸架
●装甲
砲塔外周/車体前面上下部:12mm
砲塔上面/前面傾斜部/底面:9mm
車体後面:10mm
ハッチ:6mm、など
●エンジン型式:三菱 A6120VDe
●エンジン種類:2ストローク空冷 直列6気筒ディーゼル
●排気量:14300cc
●燃料供給方式:機械式噴射装置
●最大出力:120hp/1800rpm(定格は110hp)
●最大速度:40km/h(定格は31.7km/h)
●航続距離:約250km
●変速機:前進4速/後進1速(ノンシンクロ)
●主砲:37口径 37mm戦車砲(120発)
●副武装:7.7mm重機関銃×2(3000発)
●乗員:3名(車長/砲手、操縦手、機関銃手)

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