ソ連の全体主義を現代のスクリーンによみがえらせ、第70回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞した話題作『DAU. ナターシャ』(公開中)。本作は、バイオレンスかつエロティックな描写がベルリンでも賛否両論を巻き起こした、衝撃だらけの作品だ。今回は過去に耳にしたことがないようなスケールで行われた“撮影”に注目していきたい。

■ソ連時代の生活を完全再現した狂気のプロジェクトとは?

本作は、監督を務めるイリヤ・フルジャノフスキーによる「DAU」プロジェクトの1作品。「DAU」とは、1962年にノーベル物理学賞を受賞したロシアの物理学者レフ・ランダウから取ったもので、全体主義時代に自由恋愛を信奉し、スターリンを批判して逮捕された人物として知られる。

プロジェクトは、いまや忘れられつつあるソヴィエト連邦の記憶を呼び起こすため、1938〜68年のソ連支配下における人々の暮らしを完全再現するというもの。同時代において、知性・創造性の中心地であったウクライナのハルコフという都市に物理工学研究所を再建すると、実際にそこで科学者たちは研究を行い、またそのほかの参加者たちも世間から断絶されたこの空間で2年間にわたり生活をしたそう。ハリコフの住人のうち7人に1人がこのプロジェクトに参加していたというから驚きだ。

■数字で見るスケール感と、驚異的な徹底

そんな狂気的なプロジェクトの一環として、そこに暮らす人々の姿を断片的に撮影して作られた作品の1つが『DAU.ナターシャ』だ。本作以外にも「DAU」と頭に付けられた10本以上の映画やテレビシリーズの制作が予定されている。

この一大プロジェクトを可能にしているのが、大規模な撮影。数字で見てみると、そのスケールの大きさがわかる。建てられたセットは欧州最大規模の1万2000平米、オーディションに参加した人数は39万2000人で、主要キャストは400人、エキストラは1万人にものぼる。彼らが着る衣装は4万着用意された。また40か月の撮影期間のうち、180日で撮影が行われ、その結果フッテージはほぼ1か月に相当する700時間にもおよんだ。

加えて、恐るべきはリアリティを生みだすための徹底ぶり。着ていた服から食べ物、日用品、さらにはお金(当時の通貨ルーブル)や言葉まで、セット内は当時のもので統一され、新聞も当時の出来事が掲載されたものを用意。研究所内では役になりきった参加者同士の結婚や出産もあったという。

さらに、作品内でのKGBの調査官役には、実際に過去にKGBで働いていた人物がキャステイングされており、収められている映像は現実の再現と言える域に到達している。

■圧倒的な恐怖を突きつけられる『DAU.ナターシャ』

膨大なフッテージから創出された第1弾作品『DAU.ナターシャ』。本作は、研究所に併設されたカフェのウェイトレス、ナターシャに焦点を当てたもの。1952年、ソ連の研究所に併設された食堂で働くナターシャはとある宴に参加し、そこでフランス人科学者リュックと肉体関係を結ぶ。しかし、ソヴィエト国家保安委員会の監視の目が届いており、連行されてしまうことに…。

全体の一部であることもあってか、登場人物は少なく、食堂での日常、宴での幸福なひと時、そして拷問と、おもに3つのシチュエーションのみで構成されている。それゆえ、映像面における時間の使い方が非常に贅沢で、シチュエーションの一つ一つをじっくりとひたすら長回しで、ドキュメンタリーかのように映しだしていく。

700時間分もカメラを回したからこその映像に加わってくるのが、ほとんど即興だったという演技。この2つが合わさり、圧倒的な没入感を生みだしている。ナターシャがもう1人の従業員であるオーリャと髪をつかみ合ってケンカをするシーンには、えも言われぬ生々しさが漂っており、拷問シーンでは目を背けたくなるような不快感や全体主義の恐怖や人間の残酷さを、まざまざと叩きつけられるのだ。

露骨な性描写と暴力描写を含み、賛否両論を集めた『DAU.ナターシャ』。狂気的なプロジェクトと撮影方法によって収められた映像は、正直なところ戸惑いも覚えるが、間違いなくこの作品でしか観ることのできない唯一無二のものと言えるだろう。

文/サンクレイオ翼