あまりにも忙しなく、時間に追われるばかりの現代社会に生き、“眠る”こともままならない人々におくる音楽アルバム「スリープ(SLEEP)」。この楽曲群を真夜中から朝にかけて演奏するコンサートを記録したドキュメンタリー映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』(公開中)が登場した。今回、「スリープ」を生みだした世界的な音楽家、マックス・リヒターと彼の公私にわたるパートナーであるユリア・マールへのオンラインインタビューを実施。本作の制作秘話や音楽を創造すること、映画音楽への取り組みについても語ってもらった。

■「クリエイティビティ、アートというものが、なんらかの力になれたら」

マックス・リヒターは1966年にドイツのハーメルンで生まれ、イギリスのエディンバラ大学と英国王立音楽院でピアノと作曲を学んできた。2002年にアルバム「メモリーハウス」でデビューし、クラシックとエレクトロニック・ミュージックを融合させた、いわゆる「ポスト・クラシカル」を代表する作曲家として活躍。オリジナル作品以外にも映画やテレビの劇伴を数多く手がけており、たとえその名を知らなくても、『戦場でワルツを』(08)や『メッセージ』(16)、『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(18)、『ある画家の数奇な運命』(18)、『アド・アストラ』(19)といった作品で彼の楽曲を耳にしてきたはずだ。

「ある意味、科学的な見方ができる作品だと思います」というリヒターの言葉通り、実験的な作風で知られている彼の作品の中でも、2015年に発表された「スリープ」はとりわけ意欲的な作品と言える。

“眠り”をテーマとし、聴く者を癒しと安らぎの空間へと誘うこのアルバムは、実に8時間におよぶ楽曲群で構成されている(1時間バージョンの「フロム・スリープ」も発売)。アメリカの神経科学者、デイヴィッド・イーグルマンから睡眠中の意識のメカニズム、音楽が睡眠時に与える影響についての助言を得て、脳波と親和性の高いリズムを探りながら気の遠くなりそうな作業が繰り返された。シンガーが歌うソプラノヴォイスにバイオリンやチェロのストリングス、ピアノの美しい音色に加え、生楽器では難しい独特の低音は、劇中でリヒターが「13歳の時に(ドイツの電子音楽グループ) 『クラフトワーク』の音楽を初めて聞いて以来、夢中になった」と語っているシンセサイザーの音が可能にしている。

「良い睡眠には、なにが体に必要かを探求した結果、低周波を何度もリピートすることで、眠りやすくなることがわかりました。この低周波を鏡のように反響させ、同じ音を何度も繰り返すことで、胎児が子宮にいる時と同じ聴覚体験ができるのです。そして、夜明けともに高周波へと変化し、徐々に眠りから覚醒させていきます」

本作では約1時間半に凝縮された「スリープ」の楽曲が全編にわたって流れているのだが、その音楽を聞いているだけでも深いところへと落ちていき、意識と無意識の感覚が曖昧に。そして、劇中の観客が目覚めるのと同じように、スクリーンの外側にいる私たちの五感も研ぎ澄まされていく。

かねてより睡眠に関心のあったリヒターは、「スリープ」の制作をライフワークにしていたという。そこには、彼の子どもたちが将来、心から休める場所はあるのだろうか?という疑問が湧き上がったことに起因する。この楽曲を聞く人、映画を観る人にはどのようなことを受け取ってもらいたいと考えているのだろうか?

「私の意図するところでは、音の“スペース”をみなさんに届けたいと思いました。休むため、スイッチをOFFにするための助けになればという気持ちがあります。とにかく、いまの時代はテータ過多で、休むことが本当に難しくなっています。クリエイティビティ、アートというものが、それらに対する特効薬、なんらかの力になれたらとの思いで制作しました」

■「ミュージシャンが主人公ではなく傍観者となり、観客が内省的な体験をする空間を生みだす」
本作では、2018年にロサンゼルスのグランドパークで行われた「スリープ」の野外公演の模様が映しだされている。会場にはいくつものベッドが並べられ、観客はそこで眠ってもいいし、自由に歩き回ることも許されている。また、このロサンゼルス公演だけでなく、シドニーのオペラハウスや、アントワープの聖母大聖堂、パリ、ベルリン、ニューヨークといった世界各地で開催された演奏のアーカイブ映像も差し込まれていく。

監督を務めるのは、南アフリカ出身の映画監督、ナタリー・ジョンズ。「U2」のボノを題材としたテレビドキュメンタリー『Electric Burma』(12)をはじめ、社会問題と音楽やアートのつながりをテーマにした作品が多いのが特徴だ。リヒターのパートナーで、映像作家として活躍するユリア・マールは、「スリープ」のプロジェクトをスタートさせた時からドキュメンタリー映画の構想を抱いており、資金集めに難航する中で、制作風景や講演の様子を撮影し続けていた。当初は自身で監督することを考えていたが、子育てや別の仕事もあり、信頼できる監督に任せることにする。そこで白羽の矢が立ったのが、ジョンズだった。

ジョンズを発見したことについて、マールは次のように振り返っている。
「ナタリーの作品を観た途端、『彼女だ!』と直感しまた。映像の美しさ、そして、人々が持つ物語への興味が決め手でした。彼女が作った映画は私たちのプロジェクトの核心をついていて、インタビュー映像を観た時、私は大きく心を動かされました」

マールはジョンズにすべてを託し、これまで撮り溜めた映像を渡した。そこには、「スリープ」の記録映像だけではなく、8mmで15年間にわたって撮影されたリヒターや子どもたちとのプライベート映像も含まれていたという。また、本作ではリヒターをはじめとするミュージシャンや関係者だけでなく、コンサートに参加した観客たちにもカメラを向けているのが印象的だ。しかも、それぞれの家にまで赴き、パーソナルな背景までも映しだしている。

「『スリープ』の魅力は、ミュージシャンが主人公ではなく傍観者となり、観客が内省的な体験をする空間を生みだすところにあります。観客抜きには語ることができない、成立しないものなので、ナタリーには『なんでもいいので観客に語ってほしい』とお願いしていました。しかし、会場にカメラを持ち込むことで、観客が貴重な体験をするのを妨げる恐れもありました。そこで彼女は、事前にロサンゼルス公演に参加する人から希望者を募り、それぞれの家で自身の体験を語ってもらうことにしたのです」と、マールは続けて説明する。そこには、観客が時間から解放され、演奏に没頭していく様子を映画的に表現するというねらいがあったようだ。

■「大きな課題をテーマにすることが、とても自然なこと」

リヒターはこれまでに、イラク戦争への抗議の想いを込めた「ブルー・ノートブック」、1948年に国際連合総会で採択された「世界人権宣言」の朗読を楽曲に取り入れた「ヴォイシズ」などを制作。「スリープ」のコンサートもまた、大勢が同じ空間に集まって眠りにつく光景が難民問題に結びつけることができるなど、自由と平等、平和や多様性といったメッセージを、そのキャリアを通じて投げかけてきた。

創造力の源は?という問いに対し、リヒターはこのように答えている。
「直感的なものがありますね。世の中にはたくさんの音楽や文学、芸術作品であふれています。そこに私がなにかを加えるのであれば、人間として、社会として、現在存在している大きな課題をテーマにすることが、とても自然なことなのです。そして、アートや創造物には、私たちが直面する多くの問題に光を当てる力があるとも信じています。世界人権宣言を扱った『ヴォイシズ』では、希望を失いやすいいまの時代において、『すばらしい道標があるじゃないか!』ということを提示したかったのです」

■「ヨハンはかなり真剣に取り組むアーティスト」

上記の「ブルー・ノートブック」には、「オン・ザ・ネイチャー・オブ・デイライト」というリヒター最大のヒット曲が収録されている。この楽曲は『シャッター アイランド』(09)など様々な作品で使用されており、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』もその一つ。しかし、『メッセージ』の劇伴を務めていたのは、リヒターの盟友であり、2018年に亡くなったアイスランドの音楽家、ヨハン・ヨハンソンだった。ヴィルヌーヴから楽曲使用のオファーがあった際、リヒターはまずヨハンソンに連絡を取り、了承の確認をしたと言われている。

ヨハンソンについてリヒターは、「お互いに信頼を持っている間柄でした」と語っており、高いリスペクトを持っていたことがうかがえる。

「ヨハンはかなり真剣に取り組むアーティストという印象でした。音楽に限らず、文学や哲学にも造詣が深く、これらについて話すのはとてもすてきな経験でした。私の感覚としては、彼の音楽的センスは北欧のクラシック音楽を多く引き継いでいて、その文化が如実に音楽にも反映されていたと思います」

物静かでインタビュー中もあまり表情を変えないリヒター。しかし、ヨハンソンとの記憶をたどる彼の顔には微かな笑みがあり、その思い出がいかにすばらしいものだったかは想像に難くない。

■「映画音楽は、あたかも最初からそこにあって、不可欠な要素として存在する」

リヒターのデビューアルバム「メモリーハウス」は商業的に失敗し、レコード会社の活動停止もあり、廃盤扱いになってしまう(のちに再発売)。その後、「ブルー・ノートブック」などによって成功を手にしていくわけだが、劇中ではその苦難の道程も語られている。また、「スリープ」の制作に着手した際、その制作費用を稼ぐために映画音楽の仕事を受け始めたというエピソードも明らかになる。

楽曲を生みだすプロセスを「音楽を発見していくこと」と表現する彼にとって、オリジナルと映画音楽では、それぞれの観点が異なるようだ。

「映画音楽は、あたかも最初からそこにあって、不可欠な要素として存在しなくてはなりません。制作過程では、監督をはじめ、スタッフと一緒に作り上げていくという楽しさもあり、実験的な作業でもあります」

■「宇宙で記録されたデータを基に作った音楽なんですよ!」

リヒターが映画音楽を作るおもしろさを、より明確に実感したのが、ブラッド・ピット主演のSF大作『アド・アストラ』だ。本作はピット演じる宇宙飛行士が、太陽系の彼方に消えたと思われていた父の謎を追って宇宙へ旅立つというストーリー。リヒターにとって初めて参加したハリウッド大作で、その宇宙的な音空間を感じさせる独特な楽曲は、第63回グラミー賞において最優秀スコア・サウンドトラック賞にノミネートされている(受賞は『ジョーカー』(19)のヒルドゥル・グーナドッティル)。

この作品はリヒターのキャリアにおいて最も大きなプロジェクトの一つと言える。参加を決めた理由について、「ストーリーに強く惹かれました。そして、ジェームズ・グレイ監督が映像作家として、とてもすばらしい方だということもわかっていました」と振り返る。

一方で、「実は、5歳の時の私の夢が宇宙飛行士になることだったんです。それで、『ついにこの夢を叶える機会が来た!』と感じました(笑)」とも続け、幼少期から宇宙への憧れがあったことも教えてくれた。

さらに、「『アド・アストラ』に参加できたことは非常にすばらしい経験で、多くの実験的な取り組みの機会にも恵まれました。その一つが、実際に(無人惑星探査機)ボイジャーが収集した“宇宙の音”を使用できたことです。宇宙空間で流れる音楽は、実際に宇宙で記録されたデータを基に作った音楽なんですよ!」と声を弾ませるリヒター。『アド・アストラ』の楽曲制作は、宇宙をより身近に感じられる作業でもあったようだ。

「スリープ」のコンサートを疑似体験でき、リヒターの音楽のルーツや向き合い方、家族との絆も感じることができる『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』。単なる記録映像では終わらず、音楽や演奏の映像に引き込まれ、インスピレーションにも刺激を与えてくれる。普段の喧騒を忘れ、劇場でその世界観にどっぷりと浸ってみてほしい。

取材・文/平尾嘉浩