マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームは、分子を極低温に冷却して作り出した量子重ね合わせ状態を、1秒間という長い時間スケール(従来比数百倍)にわたって持続させることに成功したと発表した。

量子重ね合わせ状態が持続する時間の長さは「コヒーレンス時間」と呼ばれ、これを伸ばすことは量子コンピュータ実現の上で非常に重要な技術となる。今回報告された1秒というコヒーレンス時間は、量子コンピュータに実用的な計算を行わせるために必要な条件に近い長さであるとしている。研究論文は、科学誌「Science」に掲載された。

実験では、ナトリウム原子1個とカリウム原子1個からなる二原子分子(NaK)数百個からなる微視的な気体を2本のレーザービームの交点上に捕捉して、300nK(ナノケルビン)、すなわち絶対零度よりも数千万分の1度ほど高いだけという極低温まで冷却した。

二原子分子が持っている量子情報には、構成原子の核スピン、分子の回転エネルギー、振動エネルギーなどがある。分子が極低温に冷却されることで回転および振動のエネルギー準位が最低状態に下がり、核スピンの方向も揃う。このような状態で核スピンのコヒーレンス時間を1秒という長時間に延ばすことに成功したという。これまで分子を用いた同じような実験では、回転エネルギーに関するコヒーレンス時間でミリ秒スケールの長さが報告されていたが、それを数百倍上回る長さを実現したことになる。

観測行為を行うまでは粒子のもっている量子情報が1つに確定せず、1つの粒子の中に異なった状態の量子情報が同時に存在するという量子力学的な性質を「量子重ね合わせ状態」という。コヒーレンス時間とは、量子的に重ね合わせられた2つの状態の間で干渉が続く時間のことであり、干渉が消えると量子重ね合わせ状態は失われ、粒子の状態はひとつに確定する。

この量子重ね合わせをデータの保存や計算処理に応用するのが量子コンピュータである。通常のコンピュータでは1ビット(情報の基本単位)が「0」か「1」どちらか一方の値を取るのに対して、量子コンピュータにおける1量子ビットは「0」と「1」がある確率で重ね合わされた状態になる。これを利用することで従来のコンピュータでは行えなかった高速の並列計算などが可能になると考えられている。

量子ビットの担い手として利用可能な物質には、電子、原子、分子などさまざまなレベルの粒子があるが、この中で二原子分子を使うことのメリットとして、1つには、核スピン、分子の回転エネルギー、振動エネルギーなど、重ね合わせ状態にできる量子情報の種類が多いということがある。それから、粒子同士を相互作用させたり、粒子を外界と相互作用させたりするのが容易であることも分子の特徴であると研究チームは指摘する。

分子間の相互作用が容易だと何が良いかというと、複数の量子ビットを組み合わせて「量子ゲート」を作るのに適している。量子ゲートは、量子コンピュータによる演算処理を行う場合の基本操作であり、従来のコンピュータの「論理ゲート」に相当するものである。

論理ゲートというのは、例えば入力[1,1]に対しては出力[1]を返す、それ以外の入力[0,0][0,1][1,0]に対しては出力[0]を返すというような単純な記号操作のルールである。いま挙げた例はAND(論理積)と呼ばれる論理ゲートだが、他にもOR、NOT、NAND、XORなどいくつかの種類のゲート操作があり、コンピュータ上では複雑な演算もこれらの単純な論理ゲートの組み合わせに還元して処理される。量子コンピュータの場合には、量子ビットの重ね合わせ状態を利用した並列処理可能なゲート操作を行うことになるので、これを量子ゲートと呼んでいる。

今回のような二原子分子による量子システムの最大の利点として研究チームが強調しているのは、量子ゲートを用いた演算処理と、データ保存のためのストレージという2つの異なる機能のために、同一の物理系を利用できるという点である。理想的な量子ビットに求められる条件は、量子ゲート操作を行うときには強く相互作用するが、ストレージとして情報を保存している間は相互作用が起きないという性質である。今回のような双極性のある二原子分子は、核スピンの長いコヒーレンス時間という特徴からストレージ用の量子ビットとして利用でき、その一方で、分子間の回転運動の相互作用に基づく量子ゲート操作にも適しているという。

隣接する分子同士の相互作用を利用した量子ゲート操作は、マイクロ波などを照射して分子の回転準位を制御することによって可能になるとされている。1回の量子ゲート操作を行うために必要な時間は1000分の1秒以下という短時間なので、今回のように数百個程度の分子クラスターで1秒間のコヒーレンス時間をとれれば、その間に1万回から10万回くらいのゲート操作が可能であると研究チームは説明する。

おそらくこのような分子1000個からなる配列を使えば、従来のコンピュータで行っているような論理ゲートによる演算処理を、量子コンピュータの量子ゲートで実現できると考えられている。従来型コンピュータと比べて、量子コンピュータのほうが常に計算が高速になったり、従来解けなかった問題が量子コンピュータで何でも解けるようになるわけではないが、ある種の問題に対しては、量子コンピュータの実現によって圧倒的な高速処理が可能になることはわかっている。

その代表例が、大きな数の素因数分解の計算である。ある整数Nを素因数分解するためのアルゴリズムを考えると、従来型コンピュータでは解を得るために必要なアルゴリズム実行回数は、Nの桁数の指数関数となる。このため整数Nの桁数が大きくなるにつれて、アルゴリズム実行回数は指数関数的に増大していき、現実的な時間内に問題を解くことが事実上不可能になる。現代のRSA暗号システムは、このような大きな数の素因数分解の難しさに依拠して暗号の安全性を保障している。

一方、量子コンピュータの場合、整数Nを素因数分解するためのアルゴリズム実行回数は、Nの桁数に比例したオーダーになる。また、この問題を解くために必要な量子ゲートの個数も、同じくNの桁数に比例したオーダーである。

例えば、Nの桁数が1000倍に増えても計算量は高々1000倍にしかならないので、これまで宇宙の寿命を使い切っても解けなかったような巨大な数の素因数分解がほとんど一瞬で解けるようになると考えられている。このため、量子コンピュータの登場によって、現在のRSA暗号の安全性は成り立たなくなると指摘されている。