2021年春のある日、カナダ、トロントにあるサニーブルック健康科学センターのMRI室に、陽気で快活な63歳の男性、マイケル・バトラーさんが運び込まれた。元営業職幹部でオートバイ乗りの彼は、点滴につながれ、病院のガウンに身を包んでいる。あごにはきれいに整えられた白いひげをはやしているが、頭髪は剃り上げられている。この髪形になったのは、3カ月前、プラムほどの大きさの脳腫瘍を切除する開頭手術を受けたときだった。

 バトラーさんは、「集束超音波治療」という技術を用いて、脳に薬剤を投与する新たな手法の臨床試験に臨んでいる。多くの専門家は、この治療技術がいずれ、脳腫瘍からアルツハイマー病、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に至るまで、治療が不可能あるいは困難なさまざまな脳の疾患の医療に革命を起こすと考えている。

 今回の処置では、開頭手術の後に残ったがん細胞を破壊する薬剤の投与を目指していた。手術だけでは、脳のほかの部分に深刻なダメージを与えることなく、がんを完全に取り除けなかったのだ。

 そして、この新たな手法を使えば、「血液脳関門」というハードルがあっても、薬剤を脳に届けられるようになる。血液脳関門とは、脳を守っている非常に細い血管の内側を覆う、特殊な細胞からなる薄い保護膜のことだ。これは、病原体などの悪さをするもののみならず、有用なものの侵入も妨げてしまう。結果として、脳腫瘍や神経変性疾患の治療薬のほぼすべてが、実質上、最も必要とされる部位に到達できなくなる。

 脳は極めて壊れやすく、ダメージを受ければ元に戻すことができない。だからこそ、非侵襲的な(危険や痛みを伴わない)集束超音波治療には大きな魅力がある。すでに世界中の多くのチームが、超音波で血液脳関門を開くことは安全で実現可能であることを示しており、現在はその医療効果を証明する段階にある。

脳血管の関門をどのように開くのか

 集束超音波は最近考案されたものではない。1950年代から医療行為に使われてきた。15年前からは、子宮筋腫や前立腺がんの破壊、前立腺肥大の治療に使われている。

 今日、この治療法が適用されている病気や症状は160以上にのぼる。米食品医薬品局(FDA)が承認した技術の中には、パーキンソン病のふるえや一部の運動症状の治療に用いられているものもある(編注:日本も同様)。

 ただしこれらの活用法は、血液脳関門を開くこととは関係がない。

 血液脳関門という言葉は壁を連想させるかもしれない。だが、これは単一の構造物ではなく、血管の内側で互いに固く結びついた細胞のネットワークだ。これらの細胞は、先に述べたように、重要な器官を守ると同時に、脳疾患を治療する大きな障壁でもある。

 2015年、カナダの神経外科医トッド・メインプライズ氏とサニーブルックの科学者らは、集束超音波を使って固く結びついた細胞を解きほぐし、頭蓋骨に穴を開けなくても、安全に血液脳関門を開いてみせた。この技術によって、薬を脳内に入れるのに十分な時間を確保できる。また、この処置は完全に可逆的であり、関門は処置後24時間以内に自然に閉じられる。

 サニーブルックのチームは、2021年10月にも偉業を達成している。放射性タグをつけた治療用抗体が、関門を越えて乳房から脳に転移したがん細胞に届くまでを追跡したのだ。

 薬物送達を測定するこうした技術は医学を一変させるだろうと、集束超音波治療財団の創設者兼会長のニール・カッセル氏は言う。「この技術は、MRスキャンが診断に革命を起こしたのと同じように、治療に革命を起こすでしょう」

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