長崎市出身でノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんが手掛けた映画『生きるLIVING』が今年のアメリカ・アカデミー賞の脚色賞にノミネートされました。
イシグロさんの父 海洋学者の石黒 鎮雄さんが作曲した歌が長崎に残されています。
歌には、当時、気象台職員だった石黒 鎮雄さんの思いが込められていました。

長崎港を見下ろす丘に建つ長崎地方気象台。
ここで70年ほど前から歌い継がれている “歌” があります。

2019年の春──
ここを離れる職員を送別する際にも歌われていました。


長崎海洋気象台の歌(1番)
作詞:尾崎 康一
作曲:石黒 鎮雄
岸辺を洗う黒潮の 高鳴る波に徳川の
開港ここに一世紀 永き鎖国のゆめ覚し
春は出島の灯を映し 秋は稲佐の影落とす
歴史に香う長崎の 誇りも高き気象台
曲は格式高い旋律で、港の風景や長崎の歴史が表現されています。

見送られる気象台職員:
「6月1日の気象記念日。あとは送別会とか──そういう所で歌っていましたね」
日本初の国営測候所から『長崎海洋気象台』へ

長崎での気象観測の始まりは明治時代の1878年。
日本初の国営の測候所が設置されました。

戦後、1947年に海洋気象観測船が配備されて『長崎海洋気象台』となり、東シナ海周辺で海の観測にあたることになりました。
1953年 海洋学者 石黒鎮雄さんが作曲
長崎で20年以上勤務した田代知二さんは長崎に配属当時、先輩たちからこの歌を教わりました。
気象台職員 田代知二さん:
「みなさんが歌っていて、歌うものだと思って ずっと歌っていました。
その当時、気象台に入ってこのような歌があるとはちょっと驚きでもありました」

この歌は今から70年前の1953年に、長崎海洋気象台の創立75周年を記念して作られました。

気象台職員 田代 知二さん:
「当時の長崎海洋気象台の職員の方が作られた歌です。
作曲した石黒さんはノーベル文学賞を受賞されたカズオ・イシグロさんのお父様にあたる方が作曲された歌です」

カズオ・イシグロさんの父・石黒 鎮雄(いしぐろ・しずお)さんは戦後、長崎に赴任しました。
鎮雄さんのおい 藤原 新一さんは、鎮雄さんは音楽の才能にもあふれていたといいます。
石黒 鎮雄さんのおい 藤原 新一さん:
「チェロとか弾いているのを現実に僕見ていますし、ピアノなんかも弾かれていましたしね。
だからけっこう、ほとんど毎日、音楽関係に触っていたんじゃないですか。
作曲くらいはされてもおかしくない感じですね。」
長崎の“あびき現象” を電子回路で予報する
世界的な海洋学者でもあった石黒さんは、長崎でどんな研究をしていたのか。
かつて一緒に働いていた富山 吉祐さんを訪ねました。

気象台OB 富山吉祐さん:
「石黒さんは白衣を着て真ん中におられる方ですね。」

富山さんによると、石黒さんは電子回路を使って潮位変動を予報するモデルを研究していました。
富山 吉祐さん:
「電気で解明できないことはないというような信念だったですね。
すべての自然現象を模型で再現できれば、未来というか、電気信号によっていろいろ予測ができるだろうと」
♪歴史に香う長崎の誇りも高き気象台
気象台の歌を懐かしそうに口ずさむ富山さん──
“観測した気象データ” から “未来の現象”を予測し、新たな時代を切り拓こうとする研究者たちのプライドが、この歌に込められていると感じています。

気象・海洋気象研究者の矜持──海、空、自然に向き合い翻訳する
富山 吉祐さん
「 “歴史に香う長崎の誇りも高き気象台” この辺がいかにもみんなの心意気を表しているんじゃないかなと思うんですよね。
この当時は、まだ海というのは──調査というのは “探検時代”みたいなものですから、あんまり経験がなかったので、みんな張り切ってやっていましたね。」

歌を作曲した当時、石黒さんが寄稿した冊子が、長崎地方気象台に残されていました。ここには『海と空、自然と向き合う科学者の理想』が綴られていました。

石黒 鎮雄さんの文書より
「気象や海洋の現象をとらえ、これから得られる知識を、利用者に必要な知識に翻訳して提供すること。
そうして、国民(人類と言いたい)の福祉に役立つこと──これが気象台の任務と最終の目標だと思う」

気象台職員・田代 知二さん
「私が思うにこの歌の本質はここだと思いますね。
気象への思いとか、研究者としての思いと、気象庁として何をすべきかということを葛藤しながらやられていたんじゃないかなと思いますね」

長崎海洋気象台の歌(4番)
作詞:尾崎 康一
作曲:石黒 鎮雄
ああ文化の揺らんの 聖地に残る先輩の
気象の歴史ひもときて 清き流れをくみとらば
清新のきもさわやかに 世界に智恵を捧げむと
望みに胸も高鳴りて いまこそ起ちぬ気象台
この記事は2019年4月に放送した内容を再構成しました。