■本日の言葉「infamy」(汚名、屈辱)■

英語ニュースが伝える「JAPAN」をご紹介する水曜コラム、今週は真珠湾攻撃についてです。太平洋戦争を追想する行事というと日本では得てして8月に集中しがちですが、そうするとどうしても「被害者」としての日本にばかり意識がむきがちな気がします。一方でアメリカでは、太平洋戦争といえば12月7日の真珠湾攻撃の日。つまり日本が「加害者」となった日が決して忘れない「屈辱の日(a date which will live in infamy)」なのです。もっとも日本と違って1945年以降も様々な戦争を戦い続けているアメリカには、「決して忘れない」日は色々あって、その最たるものが2001年9月11日。かつては「真珠湾以来」と評された9/11が、今では皮肉にも「9/11のような真珠湾攻撃」と説明されるようになった。そんなアメリカ各地の新聞記事に、開戦から68年、そして同時多発テロから8年という歳月を思います。(gooニュース 加藤祐子)

○日本人を(あまり)とやかく言わなくなったのか


ハワイ時間1941年12月7日朝(日本時間8日未明)に起きたのが真珠湾攻撃で、そして米東部時間1980年12月8日深夜(日本時間9日午後)がジョン・レノンの命日です。なので毎年この時期になると、どうも私はどうも落ち着かず、自分の中がザワザワしています。

私は日本以外のアジアで生活したことがないので、かつて戦場となった国々で日本人が今どういう思いを抱くのか、想像するしかありません。一方で日本人として英米に生活すると、ことあるごとに「加害者」としての日本人を意識させられます。たとえば欧州では、日本軍の捕虜になった兵士たちが日本政府相手に起こす賠償請求裁判のことが、ことあるごとにニュースになります。そして欧米人と友人になると、その人の祖父や叔父や場合によっては父親が、日本軍と戦ったり捕虜になったりしたのだとふとした時に知らされ、お互いに「そうか…」「うん…」というような会話を交わすことになるのです。もちろんその逆もまた然りなのですが。それにしても「戦争で苦しんだ日本人」というある意味で自分たちに受け入れやすい日本人像だけでは決して済まされない、「加害者としての日本人」というナショナル・イメージを受け入れなくてはならない現実が、日本国外での生活にはゴロリと大きく横たわっているのです。

特にこのパール・ハーバーの日に、特にアメリカにいれば、尚のこと。これは世界史を俯瞰した時に「大日本帝国」と日本軍の行為が大局的にどう位置づけられるかという、そういう価値判断の問題ではなく、歴史解釈の問題でもなく。ともかくもパール・ハーバーの日に、アメリカでどういう風に伝えられているのか、日本軍の攻撃はどう見られているかという話です。

そう思いながら色々な記事を見て回って、少し拍子抜けしました。私が小学生だった1970年代のアメリカでは、ともかくも日本軍は卑怯だったと、不意打ちの奇襲攻撃は言語道断の卑劣さだったと、そういう論調がとても多くて(学校の教科書にも)、私はとても居心地が悪かった。しかしさすがにあれから30年もたったからでしょうか、「日本は卑怯だ」という論調は見あたらず、ただ「いつまた不意打ちをくらうかわからないから気をつけろ。9/11を忘れるな」という警告が主流になっていました。

○「9/11のような真珠湾攻撃」

その真珠湾攻撃の日の直後に、英語ニュースが伝える日本をご紹介できるというチャンスもなかなかないと思うので、アメリカの各紙がこの日をどう伝えたかをご紹介 したいと思います。しかも今日はあえて「ニューヨーク・タイムズ」とか「ワシントン・ポスト」などの有名紙ではない、日本人にはあまりなじみのない地方紙の記事を。たぶん記事ひとつひとつは大きな扱いではなくても、アメリカ全体での記事の分量を見ると、その物量そのものが多くを物語っているように思います。

実にたくさんある記事の多くには「infamy(汚名、屈辱)」という言葉が使われています。これは真珠湾攻撃の翌8日、フランクリン・ルーズベルト大統領が行った開戦演説冒頭の「a date which will live in infamy」という有名なフレーズからきています。「この日は長く、屈辱のもとで記憶される日になるだろう」という類の訳が多いですが、「infamy」はこちら側が一方的に屈辱的だというのではなく、仕掛けた側もそれほどの悪しき行為を行ったという汚名にまみれるというニュアンスがあります。それもあって9/11以降、色々な局面で色々な政治家が「day of infamy」という表現を口にしました。

さらにほとんどの記事がやはりアメリカでも日本と同様、第2次世界大戦を記憶する世代が次々に亡くなり、「記憶の風化」が懸念されていると指摘しています。「あの世代にとっての9/11」と形容しなくては伝わりきらなくなってきていると。それでも2001年9月11日のあの時には、「真珠湾以来のアメリカ本土攻撃」と形容されていたのに、あれから8年でいよいよ「かつて9/11のような卑怯な攻撃があった」という表現の方が、大多数のアメリカ人には実感・共感しやすくなっているようです。

そしてなぜこれほどたくさんの地方紙の記事があるのかというと、アメリカ各地で「真珠湾の生存者(Pearl Harbor survivors)」を招いた追悼式典が行われたからです。それはつまり、68年前のあの日の真珠湾には、実にアメリカ中から入隊した兵士達が集まっていたということだと(考えて見れば当たり前のことを)まざまざと感じます。

たとえばテキサスでの追悼式典には、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領(いわゆる父ブッシュ大統領)が出席。地元紙サンアントニオ・エキスプレスによると、テキサス州フレデリックスバーグの式典では元大統領が、パール・ハーバーの生存者たちに敬礼(ちなみに当時17歳だったブッシュ氏は翌年、海軍パイロットとなり、各地で日本軍と戦っています)。出席していたひとりは、真珠湾で撃沈されたUSSウエストバージニアの通信兵だったウィリー・クックさん(90)。「あの日はほんとにいろんなことがあったなあ。艦上から吹き飛ばされて(海に放り出され)。運良く、何人かに引っ張り上げてもらって。一日中、意識がなかったんだよ」と。

メキシコ国境沿いのテキサスからいきなりカナダ国境に近いオハイオ州に飛ぶと、クリーブランドの地元紙クリーブランド・デイリー・バナーでは、地元の生存者2人を紹介。陸軍に入隊して真珠湾に駐屯していたジョージ・アレンさん(87)いわく、「雁の群れが北から戻ってきたと思ってよく見たら、日本軍の飛行機だった。250機ほどいたか。ハッと気づいた直後に、ジャップのゼロ戦がビルの角を回って、機関銃を一斉掃射したんだ」。「ベティボマー(一式陸上攻撃機)が、化学薬品の集積場に爆弾を落とすのも見た。運良く爆発しなかったが、あれが爆発していたら、ハワイは跡形もなかっただろう。みんな汚染されてしまったはずだ」と。

記事は真珠湾攻撃そのものについては、「日本海軍による宣戦布告なしの軍事攻撃だった(中略)この攻撃は、大日本帝国が南太平洋でイギリスやオランダに対して、さらにフィリピンでアメリカに対して計画していた戦いにおいて、米太平洋艦隊の影響を封じるための、抑止攻撃だった」と、あくまでも軍事戦略的なものだったと淡々と書いています。

オハイオの西北ミシガン州では、デトロイト・フリー・プレス紙が「あの世代にとっての9/11、屈辱の日」という見出しで、書き出しから「朝の静けさを、来襲した飛行機が暴力的に破壊した。複数の飛行機は地上に死と破壊を降り注ぎ、その後に残されたのは混乱と炎と、そして衝撃に揺れながらも決して忘れないと固く、固く決意した国と国民だった」と、意図して9/11を連想させています。記念日が訪れるたびに「決して忘れない」と誓いを新たにするのは、テロリストによる同時多発テロも日本軍による真珠湾攻撃も同じだと。

この記事によると、当時USSフィーニックスの掌砲兵曹だったビンセント・ロサーティさん(89)は、真珠湾と9/11の最大の共通点は「element of surprise(驚きの要素)」つまり奇襲攻撃だと言いつつ、「パールでは、もっと用心してるべきだった。戦争はもう2年前に始まっていたんだし」と冷静です。そして「どうもどの世代もそれぞれに血を流して、辛い形で学ばなくてはならないみたいだ」という言葉が、ともかくも第2次世界大戦からずっと戦争を戦い続けてきているアメリカの現代史を概観しているようで、とても印象的です。

それだけに、同じ記事で陸軍航空隊の砲撃手だったフランシス・ロジャーズさん(87)が、「我々はいつでも誰かに狙われている。だからいつでも警戒をゆるめてはならない。それが真珠湾と9/11の教訓だと思う」と語るのは、戦い続けてきたアメリカの正直な思いなのだろうと思います。そしてその思いを、「果たして真剣に警戒したことがあるだろうか」という多くの戦後日本人が、どう受け止めるべきなのか。

○煙草に火を付けようと手を伸ばしたら

ハワイからは気候風土もきわめて遠い東海岸のボストンでも、生存者の記念式典がありました。ボストン・グローブ紙が「かつて何十人もいた生存者が、今年はわずか3人。3人とも背中は丸くなり、手はかすかに震え、寄る年波がうかがえたが、あの日の記憶はいまだ鮮明だ」と。杖に寄りかかるバーナード・マーフィーさん(87)は当時、USSメリーランドの掌砲兵曹だった。隣にいた将校の煙草に火を付けようと手を伸ばしたちょうどその時、爆発が起きたのだそうです。将校は「殺されてしまった。僕はそれぐらい近くにいたのに。彼はその場で死んでしまった。ひどい朝だった。全くの不意打ちだったから」と。

ボストンから少し南に下ったペンシルベニアでは、フィラデルフィア・インクアイアラー紙が「ペンシルベニアの退役軍人にとって、真珠湾はいつでも近くに」という見出しで、ジョン・ジョニヤクさんという生存者の体験を詳しく紹介しています。少しかいつまんで訳します。

「1941年12月6日土曜日は給料日だった。いろいろ天引きされてほとんど残らなかったので、陸軍ショーフィールド兵営にいたジョン・ジョニヤクと仲間たちは、羽目を外そうにも金がなかった。なのでその日はみんなしてぶらぶら適当に過ごして、午後11時には床についた。明くる午前5時、ジョンたちはいつものようにラウドスピーカーに起こされて、いつもの警備任務に就くため通常の制服に着替え、ライフルと銃弾を装備し、朝食をとり、午前8時には出発準備を終えるよう指示された。みんなブツブツ文句ばかり言っていた。午前8時になる直前、22歳だったジョニヤクと仲間たちは兵営の外に座っていた。そして巨大な爆音を聞いた」

「『海軍の演習だ。うるさいな』とジョニヤクは思った。その直後、戦闘機の編隊がヤシの木の上を通過していった。機体の下部に赤い輪をみつけて誰かが『ジャップだ!』と叫んだ。何の命令もないままジョニヤクたちは本能的に、手元のライフルを構えて爆撃を続ける日本軍機に向かって撃ち始めた。『自分たちは夜明けに眠っていたと言われるが、そうじゃない。みんな起きていて、すぐに反撃したんだ』とジョニヤクは言う」

日本軍機は兵舎を立て続けに爆撃。機関銃を冷やす水をバケツに入れようとしていたジョニヤクさんはこの時、絶え間ない金属破裂音が耳元で響いたため、鼓膜を損傷。90歳になる今までずっと、耳鳴りが続いているのだそうです。そしてジョニヤクさんは戦後、真珠湾作戦の立案者のひとりだった源田実氏の訪米に反対するなど、真珠湾の記憶を風化させない活動を展開。一方で、日系アメリカ人の外科医による心臓手術で妻が命を救われたことは感謝していると話しています。「日本人に対する憎しみはない。ただあの攻撃を計画した連中は許せないんだ」

○またあるかもしれないから忘れるな、と

東海岸の南端フロリダ州は、多くのアメリカ人が老後を過ごす温暖な土地です。なので真珠湾生存者もかつては多くがここでゴルフやテニスを楽しみながら余生を過ごしていました。けれども、かつて機関銃で日本軍機を迎撃したジェリー・ミンツさん(87)は地元紙マイアミ・ヘラルド紙に、「もうあまり残っていない。次々と死んでいくから。生きていても、もう運転できないし、なかなか集まれない」と語っています。

やはり真珠湾で戦い、ガダルカナルでも戦い、沖縄戦でも戦い、戦後は地元ニューヨークで警察官になったハロルド・ショアさんも、1980年からフロリダで年金生活をしています。そのショアさんは「歴史から学ばなくては。あの時と同じようなことが、またあるかもしれない」と指摘。

戦中世代がどんどん死んでいく。真珠湾の生存者もどんどん高齢で死んでいく。だからこそ記憶を風化させてはならない。アメリカ各地の記念式典で繰り返されたここまでは、日本でも毎年8月に同じことが繰り返されています。けれども日本と違って9/11を経ているアメリカでは、ショアさんが言うようなこの「またあるかもしれない。気をつけろ」という警告が、実に生々しく響くようです。

中西部カンザス州の地元紙ウィチタ・イーグルの記事では、「何か怪しいつながりはないか、目を光らせて。もし何か気づいたら、警官に知らせて。真珠湾であったようなことは、二度とあってはならない。真珠湾攻撃はあってはならなかった。もっときちんと用心しているべきだった」と語るポール・アシュブレナーさんを紹介。USSオクラホマの上等水兵だったアシュブレナーさんは、9発爆撃されたオクラホマの砲塔を滑り落ち、油まみれの水中を岸まで泳いで助かったのだそうです。

○どうしてリメンバー・パールハーバーなのか

どうしてアメリカではことさらに「リメンバー・パールハーバー」なのか。欧州戦線ではノルマンディー大作戦があったし、そして1945年以降もあらゆる戦争を戦い続けているのに。一度の攻撃で2400人を失った衝撃や、ともかくも「不意打ち許すまじ」という怒りがあるのは理解できるにしても、なぜことさらに真珠湾なのか。この私の疑問に答えてくれるバランスのとれた論説記事が、ボストン・グローブにありました。

ボストン・グローブのジェイムズ・キャロルいわく、当時「卑怯な不意打ちを食らった」ことに対する米世論の怒りはすさまじく、もし仮にその4日後にヒットラーが無謀な対米宣戦布告をしていなければ、アメリカは兵力の全てを太平洋戦争につぎ込んだかもしれないほどの勢いだったと、歴史家ジョン・キーガンは書いているのだと。これを読んで、そうだったんだ!とびっくりしました。そんなことになっていたら、もしかしたら今の私たち日本人はアメリカ領民だったかもしれません。

かいつまんで要約しますと、「確かに真珠湾が国民の意識にとてつもないトラウマを与えたのは間違いない。しかしそのトラウマの規模は実際の攻撃規模よりも遙かに大きいし、あの攻撃が卑怯だったと強調するのは、宣戦なしの奇襲攻撃など戦争では珍しくないという事実を無視している。奇襲というのは、戦略上の手段として当たり前のものなのだから。しかも日本と米国は真珠湾攻撃の前から互いに敵対行為を繰り返していたのだから。あの攻撃を道徳に反するものだと批判するのもおかしい。日本は軍事目標のみを攻撃したのだから。むしろアメリカの方が道徳的にはいかがなものか。その数カ月後に米軍のドゥリトル隊が東京などに仕掛けた報復爆撃は、民間人のみを標的にしたではないか」

「なぜ真珠湾がアメリカの歴史において転換点であり続けるのか。それはあの時を境にアメリカはイノセンスを捨てたから。道徳に反するかもしれない目的のためにも、自分たちは軍事力を行使するのだという国になったからだ。あの時を機にアメリカは、孤立主義という道徳的な安全地帯を出て、武装したグラディエーターとして、世界的パワーとして世界の闘技場に出て行ったのだ」

なるほど。だとすると、イノセントだったはずの眠れる巨人を揺り起こしてしまったのは、ほかならぬ私たち日本人なのですね。そしてその巨人の絶え間ない戦いの果てに、在日米軍の基地問題があり、しつこいけれども9/11があり、さらにその果てに新たに発表されたアフガニスタン増派があるわけです。


◇本日の言葉いろいろ

infamy = 汚名、屈辱
・element of surprise = 驚きの要素
 

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◇筆者について…
加藤祐子 東京生まれ。シブがき隊と同い年。8歳からニューヨーク英語を話すも、「ビートルズ」と「モンティ・パイソン」の洗礼を受け、イギリス英語も体得。怪しい関西弁も少しできる。オックスフォード大学、全国紙社会部と経済部、国際機関本部を経て、CNN日本語版サイトで米大統領選の日本語報道を担当。2006年2月よりgooニュース編集者。フィナンシャル・タイムズ翻訳も担当。英語屋のニュース屋。