ハートランド、一番搾り、淡麗、氷結…すべての開発に携わったマーケター

ビールが美味しい季節になってきたが、人気のブランドは時代とともに移り変わってきた。直近では、クラフトビールがブームだ(現在は第3次ブームらしい)。

振り返れば、キリン「ラガー」に始まり、アサヒ「スーパードライ」、キリン「一番搾り」、サントリー「ザ・プレミアム・モルツ」といったプレミアムビールなどが、トレンドとなってきた。酒類全体では、発泡酒、新ジャンル、微アルコールビールなどが次々誕生したほか、ハイボール人気、レモンサワーブームと流行の変化は目まぐるしい。

当たれば大ヒット、当たらなければまたたく間に市場から消える厳しい酒類業界において、連続してヒットを生み出すのは至難の業だ。ところが、その業界で「一番搾り」「淡麗」「淡麗グリーンラベル」「氷結」「のどごし」などヒット商品を続々と生み出し、「伝説のヒットメーカー」「マーケティングの天才」と呼ばれた人物がいる。前田仁さんだ。

 『キリンを作った男』(プレジデント社)は、キリンビールのマーケティング部で主に活躍し、キリンビバレッジ社長まで務め、2020年に亡くなった前田仁さんの評伝。著者は、ビールや自動車などの企業活動をはじめ、組織、人事、外国人労働者などをテーマに幅広く執筆活動を行うジャーナリストだ。

本書で前田さんの人生とともに語られるのは、1970年代にキリンがビール市場のシェア約6割を誇った時代から、徐々にアサヒに追いつかれ逆転を許し、両社がシェア争いを続けて現在に至る歴史である。キリンの歴代トップの人物像や、競合アサヒ、サントリーの動向が重なり、立体的な物語が描かれる。

その中で、マーケターとして活躍する前田さんの行動や思考、人となりが、同僚や部下、家族などへのていねいな取材で浮き彫りにされる。天才マーケターの発想や着眼点に学ぶところが多いだけでなく、読み物としても抜群の面白さ。30年に及ぶという著者による取材の賜物に違いない。

自社の看板商品ラガーを“たたき潰す”ための「極秘作戦」

前田さんが、マーケターとしてのキャリアの初期に手がけた商品が、1986年に発売された「ハートランド」。独特な緑色のボトルが印象的な、爽やかな飲み口のビールだ。実はこの商品の開発は、当時絶好調だったキリンの看板商品「ラガー」を「たたき潰す」ための極秘作戦だったという。

当時のキリンは、ビール業界の絶対的NO.1企業。しかし、当時のマーケティング部長で前田さんの上司だった桑原通徳さんは、いずれ来る「冬の時代」を見越し、ラガー人気に安住し、変化を拒む企業の風土を変えようと考えた。このような革新的な商品開発プロジェクトに参加し、コンセプト作りから主導した前田さんにとって、ハートランドは「原点」のようなものなのだろう。

開発にあたり前田さんは、量より質を重視。一般的な消費者ではなく、大学教授やアーティストといった「時代を先取りする人々」にアンケート調査を行い、その結果を重視した。そして、中身やパッケージにこだわる一方、当初はテレビCMを一切行わないなどの戦略で、コアなファンを得ようした。

また、当時のハイセンスな人たちをコアターゲットにし、東京限定販売にしようと考えた。だが、これが営業部門の猛反発を招く。量産して利益を上げるのが当然と考えた営業部門にとって、限定販売は販路をせばめるだけでメリットを感じられなかったからだ。

「それならば」と前田さんがとったのが、地域限定どころか「1店舗限定」。直営店「ビアホール・ハートランド」を六本木に設け、そこだけでハートランドを提供する戦略だ。期限付きでオープンしたこのビアホールは、現代アートの展示や音楽、舞踏、演劇などのライブイベントを開催するなど文化拠点としても注目を集め、徐々に活況を呈していった。来店者数は閉店までの4年2カ月に56万人だった。

ハートランドは一定の成功を収め、次に前田さんがチャレンジしたのが、その頃大人気だったアサヒスーパードライに対抗できるキリンの新ブランドの開発だ。

そして前田さんが開発を主導し、一度しかろ過しない一番搾り麦汁だけでつくる贅沢なビールが発案された。「一番搾り」と最終的に名づけられたこのキリンの新しい「定番」がヒットするまでの詳細は本書を読んでいただきたい。生産サイドからの反発、命名の際の裏話、価格設定に関する経営陣とのやりとりなど、思わず引き込まれるエピソードが満載だ。

変化を拒む組織に挑み続ける姿勢

ところで、この本に描かれるのは、天才マーケターとはいえ一人の「サラリーマン」の人生だ。当然、うまくいく話ばかりではない。キリンビールという大規模な組織の中で、前田さんは理不尽な左遷も経験する。それは彼が、上司や組織に媚びることなく、自分の価値観や生き様を貫いた結果だったように思える。

前田さんは、先述のハートランドのコンセプトと同様、過去の成功の上に胡坐をかき、変化を拒む組織に抗い続けた。

ミスを問われた部下が懲戒の処分を受けた際には、不祥事ではないので懲戒には当たらないと抗議し、しまいには「その前に俺を懲戒にしろ」と人事部の幹部にすごんだという。そして、自分の経歴に傷がつくことも厭わず、実際に処分を受けた。「誰かを処分しなければ示しがつかない」として一社員を安易に懲戒する、旧態依然とした理不尽な組織への「抵抗」だったといえる。

もっとも、高度経済成長を経験した日本で、過去の成功の上に胡坐をかいたのは、キリンだけではない。バブル崩壊以降、多くの大企業がかつての成功体験に拘泥し変革を拒んだ結果、失われた20年とも30年ともいわれる時代を迎え入れることになったという指摘はよく聞かれる。「家電王国」と呼ばれた過去を捨てきれず、デジタル時代のビジネスに出遅れたといわれる電機メーカーは、その典型といえる。

VUCAの時代とされる昨今、変化のスピードはかつてなく速く、現状に安住するのは「座して死を待つ」に等しいといっても過言ではない。キリンというなかなか変わろうとしなかった大組織に挑み続けた前田さんの姿勢は、今のビジネスの世界にこそ、もっとも大切なのではないだろうか。

読後、ハートランドが飲みたくなって近所のスーパーに探しにいった。目立たない棚ではあったが、数本の、ラベルのない緑色のボトルが目に飛び込んできた。人々の生活スタイルや価値観が多様化する中で、今後は、メガヒットよりも、少数でもコアなファンを持ち、彼らに長く愛される商品が、より求められるようになっていくのかもしれない。そう考えると、ラガーに挑み、いまやロングセラーとして生き残るハートランドの戦略は、まさにこれからの商品開発に通じるようにも思える。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部 前田真織)

『キリンを作った男』-マーケティングの天才・前田仁の生涯
永井 隆 著
プレジデント社
320p 1,980円(税込)