100歳をすぎても現役の医師を続け、高齢者が活躍できる社会の在り方などについて提言を続けた文化勲章受章者の日野原重明さんが18日朝、呼吸不全のため亡くなりました。105歳でした。

日野原さんは明治44年に山口市で生まれ、当時の京都帝国大学で医学を学んで昭和16年に東京の聖路加国際病院で内科医として働き始めました。
診療のかたわら、病院関係者の力を総合した「チーム医療」の重要性を主張して看護師の教育に力を注いだほか、昭和29年には民間の病院でははじめて人間ドックを導入し、生活習慣を改善して病気を予防するという考え方を普及させました。

日野原さんは聖路加国際病院の院長や理事長、国際内科学会や国際健診学会の会長などを務めました。
また昭和45年のよど号ハイジャック事件に巻き込まれ、4日間、人質として拘束されました。
平成7年に起きた地下鉄サリン事件では聖路加国際病院の院長としてみずから陣頭指揮をとり、事件の当日だけで病院に運び込まれた640人の被害者の治療に当たりました。
さらに生と死をテーマにした執筆や講演を続けて高齢者が活躍できる社会の在り方などについて積極的に提言し、平成13年に出版した「生きかた上手」がミリオンセラーとなりました。

また、音楽劇に出演したり全国の小学校を回ったりする活動を続け、テレビ番組にも数多く出演して人間味あふれる語り口で親しまれました。
平成15年に放送文化賞を受賞したほか、平成17年には文化勲章を受章しています。
さらに90歳を前に出会ったアメリカの絵本をもとに、命の尊さを伝えるミュージカル「葉っぱのフレディ」の脚本の原案を手がけるなど、生涯現役の医師を貫きながら活動の幅を広げていました。

関係者によりますと、日野原さんは体調を崩して自宅で静養を続けていましたが、18日朝6時半すぎ呼吸不全のため亡くなりました。
日野原さんの告別式は病院葬として今月29日都内の葬儀場で行われます。
【「延命望まず」家族語る最期の日々】日野原重明さんの次男の直明さん(69)は「ことしの3月に検査で入院した際に肺炎が見つかりましたが、本人の希望で自宅で療養していました。しばらくはトーストや目玉焼きなどを食べていましたが、10日ほど前からは流動食になりました。おとといまでは呼びかけに返事がありましたが、きのうからはかすかにうなずくくらいで反応が鈍くなり、きょう明け方、静かに眠るように息を引き取りました。延命措置は本人が望んでおらず、全く行いませんでした」と話しました。

自宅療養中の日野原さんの様子については「ことしの10月4日の106歳の誕生日をずっと楽しみにしていました。数か月前までは『自分は東京オリンピックまで生きるんだ』と言っていました」と話しました。
また日野原さんの人生を振り返り「よど号のハイジャック事件を経験してからは、残された命を社会のために使うという使命感を持って生きていて私も影響を受けました。そういう生き方をしていたので、やり残したことはなかったのではないかと思います」と話していました。
そのうえで「父は自宅療養の間、私たち家族や知人らに『お世話になった。ありがとう』と感謝の言葉を述べていました。患者や本の読者の方々にも同じような思いだったのではないでしょうか」と話していました。
【聖路加国際病院院長「悲しみと喪失感は言い表せない」】日野原重明さんが名誉院長を務める聖路加国際病院の福井次矢院長は「日野原先生は長年にわたりわが国の医療の向上に多大な貢献をされ、同時に国民の健康増進や生き方についての提言など幅広い功績を残されました。われわれにとっても日野原先生を失った悲しみと喪失感はどんな言葉でも言い表すことができません。魂の平穏を謹んでお祈り申し上げます」とコメントを発表しました。
【官房長官「現代の日本医療の礎を築き上げた一人」】菅官房長官は閣議のあとの記者会見で「日野原氏は早くから予防医学の重要性に着目し、現在国民に定着している『生活習慣病』という言葉を提唱するなど、まさに現代の日本医療の礎を築き上げてきた一人であると考えている」と述べました。
そのうえで菅官房長官は「地下鉄サリン事件の際には、聖路加国際病院の院長として、事件後に直ちに被害者の無制限受け入れを実施し、被害者治療の拠点として事件の被害拡大防止に大きな貢献をされるなどすばらしい偉大な功績をあげた。100歳を超えてもなお生涯現役として医学界の発展に尽くされた日野原氏に対して、心から敬意と感謝を表するとともにご冥福をお祈り申し上げたい」と述べました。