日野原さんが医師を志したきっかけや、終末期医療に尽力したいきさつなどをまとめました。

日野原さんが医師の道を志したのは10歳の時の出来事がきっかけでした。病弱だった母親が病気で倒れた際、夜中に駆けつけた医師の熱意あふれる姿に影響を受けたといいます。日野原さんはNHKの番組でそのときのことについて「医師という仕事について、人の悩みや苦しみを助ける職業で、すばらしいと思った。そのときの医師の姿は私の100年の人生の中でとても大きな存在だ」と話しています。

そして現在の京都大学に入学した日野原さんは、医師としての生き方を決定づける患者に出会います。重い結核に苦しむ10代の女性患者です。自分の死期を悟っていたこの女性患者が急変した際、安らかな死を迎えるケアができなかったことを激しく後悔したということです。この患者の死をきっかけに、終末期の患者をどう支えたらいいのか深く考えるようになったといいます。そして世界各地のホスピスを見学し、平成5年には神奈川県に国内で初めての独立型のホスピス専門の病院を設立するなど日本における終末期医療の確立に尽力してきました。

また日野原さんは病気の予防にも尽くしてきました。昭和29年、民間の病院では初めて人間ドックを導入したほか、昭和52年には当時、成人病と呼ばれていた病気の呼び方を変えることを提唱し、個人が生活習慣を見直して病気を予防するという「生活習慣病」という考え方を普及させました。日野原さんは自叙伝「僕は頑固な子どもだった」の中で「私が常に心掛けているのは、今までの古い発想にとらわれず、新しい発想で物事を変えるということ。『生活習慣病』という言葉を世に広めたこともその1つであろう」と記しています。
【戦争時中の無力感が原動力に】日野原さんは戦時中に感じた医師としての無力感が、その後、命と向き合い続けた活動の大きな原動力となってきました。

日野原さんは大学時代にかかった結核の後遺症のため兵役を免れ、戦時中、東京都内の病院で駆け出しの医師として働きながら空襲で傷ついた多くの市民の手当てをしたといいます。
特に昭和20年の東京大空襲について、のちに忘れられない経験だと語っています。病院には1000人を超える負傷者が運び込まれ、ロビー一帯に寝かされていましたが、医療資源も乏しく薬も包帯もないなかで、ほとんどの人が死んでしまったといいます。

日野原さんは平成27年に放送したNHKの番組で33歳で迎えた終戦を振り返り、「やっとこれで空襲がなくなって本当にみんなの命が助けられたのだから、これからは立ち上がって頑張ろうという決心を抱いたのが8月15日だった」と述べ、医師としての再出発を誓ったとしています。

こうした体験をもとに、日野原さんは終戦から2年後に施行された平和主義を掲げる憲法についても講演会などで積極的に発言してきました。

平成26年に出版した著書「十代のきみたちへ」では、日本の憲法を「いのちの泉のようなもの」と表現したうえで「いのちを守るためには、なによりも世の中が平和でなければなりません。『憲法はいのちを守るものだ』という私の言葉をぜひ思い出してほしい」と若者たちに託す言葉を残しています。