‘21年5月中旬、兵庫県の相生駅周辺にあるビジネスホテルで、ある男と待ち合わせをしていた。昨年4月に刊行した拙著『確執と信念 スジを通した男たち』を書くにあたって、絶対に欠くことのできない人物の取材だった。

◆“稀代の豪打者”と孤独

 相生駅までは品川駅から新幹線で4時間弱。緊張とともに胸の高鳴りを感じながら無機質なプラットフォームに降り立ち、駅を出た瞬間に動揺が走った。今にも豪雨が降ってきそうな空模様だ。閑散とした駅前の雰囲気と相まって、寂しげな雰囲気が身体を纏った。

「あの人はこんなところに住んでいるのかぁ」

 そんなことを思いながら、すぐさま頭の中で取材の構成を反芻し待ち合わせ場所まで歩いていく。

「かつては奈良に豪邸を建てたとテレビでもよく取材されていたのに、なぜ今の住まいはこの場所なんだろう……」

 山間の景色を見渡しながら、そんなことがふと頭をよぎったのを覚えている。

 週に3回透析を受けており、体調があまり優れないと取材前から聞いていた。だからこそできるだけ負担のない取材にしなくてはと思いながらビジネスホテルの前に立っていると、グレーの格子柄のスーツを着た小柄な老人が近づいてきた。「こんにちは〜」と軽く会釈をしてくる。あまりに力感のない掠れた声に、一瞬脳が混乱した。

 その小柄な老人こそが、門田博光だった。170cmそこそこの身長ながら、豆タンクのような逞しい体躯を誇っていた男が、老齢も相まって痩せ細り、実年齢よりもかなり老けて見えた。もはや別人にしか思えなかった――。

◆球史に燦然と輝く成績を残すも……

「死と生が一日おきに繰り返す感じで、あまり体調はええことありませんわ」

 当時73歳の門田博光は、開口一番にそう語った。弱々しい声だったが、努めて明るく振る舞おうとしている様子がうかがえる。年齢による老けもそうだが、体調の悪化により老年度が増してしまったのは明らかだった。

「友人はいません。ローンウルフです。“19番”(野村克也)との一件から、勝負の世界はひとりでいいと思い、一切人を寄せつけなかった。引退したら横の繫がりがないから大変やね。話し相手もいないし……」

 門田は静かな笑みを浮かべ、息を吐くようにそう言った。’70、’80年代に南海ホークス、オリックス・ブレーブスで活躍した往年の大スラッガーの絞り出した吐息はあまりに儚く、切なかった。

 打者にとって最高の名誉でもあるホームランの歴代通算第一位は、言わずと知れた“世界の王”こと王会長こと王貞治(現福岡ソフトバンクホークス取締役会長)の868本だ。次に、選手としてだけでなく名将とも謳われた野村克也の657本、そして第三位に門田博光の567本が食い込む。また好打者の条件とも言える歴代打点数を見ても、一位に王貞治の2170打点、二位に野村克也の1988打点、ここでも三位に門田博光が1678打点で名を連ねる。

 ホームラン数、打点数ともに王、野村という大レジェンドに次ぐ歴代三位の記録を残しながら、門田は引退後、監督はおろかコーチも一度としてやっていない。王、野村が現役時のみならず引退後の功績も華々しかっただけに、門田の引退後が極端に寂しく思えた。引退後はテレビ中継の解説者などでたまに見かける程度で、指導者の道へと進まなかった。縁あって’11年には関西独立リーグ「大阪ホークスドリーム」の監督をシーズン途中から1シーズンやっただけで、その後は次第に世捨て人のように音沙汰を聞かなくなっていった……。

◆門田を襲った病魔

 取材を始める前に、申し訳なさそうな感じで門田から声をかけられる。

「右耳が聞こえないので、申し訳ないですが大きな声でお願いできますか?」

 ‘03年に小脳梗塞で倒れ、’05年にも再発してしまったせいで右耳が難聴になってしまったのだ。申し訳ない思いはこっちなのに、門田が精一杯気を遣ってくれているのが痛いほどわかった。

 取材を受けた時点でこちらの意図を当然理解していただろう。人間言いたくないことのひとつやふたつは必ずあるものだ。その部分をどう攻め落としていくかがノンフィクション取材の攻防でもある。『確執と信念』という表題のとおり、引退後も噂され続けた野村克也との確執、そして門田を孤高の存在たらしめた信念について聞き出したかった。時折鋭い目で取材陣の様子を探りながらも丁寧に語り、まだ世に出ていない野村克也との確執について吐露してくれた。

 3時間強に及ぶ取材が終わった。

「今日は、初めて話すことが三割はあったんじゃないですか」

取材前とは打って変わり張りのある声で話す門田の顔色は、溜まっていた澱を吐き出したかのように血色の良い赤みがさしていた。はぐらかすことをせず3時間以上も真摯に語り続けてくれたその姿勢は、現役時代の代名詞だったフルスイングそのものだった。

「もう大丈夫ですね。それでは、失礼します。ありがとうございました」

 はっきりと丁寧に挨拶をして、門田はホテルを後にしていった。その後ろ姿が、門田を見た最後だった。

◆門田からの電話

 拙著において門田が一番最初の取材対象者だったこともあって、いろいろと考えさせられた。体調がかなり悪い中で取材を受けてくれた意味は何だったのか、僕らに伝えたいことは何だったのか……。言い知れぬ思いを馳せながら、門田が誠心誠意話してくれた内容を原稿にした。

 忖度は一切なしに、門田との真剣勝負だと思って筆を走らせ、原稿のチェックをお願いした。当然、懸念点はいくつかあった。門田の変人ぶり、そして現在の孤独を辛辣に表現した部分もあった。そうした部分には修正が入るだろうなと覚悟していた。だが、意外にも修正は1箇所もなかった。いつもなら「やったー」と呑気に思ってやり過ごすものだが、このときばかりは違った。何かを託された思いを感じて、みぞおちあたりにズシリと重いものを感じる。

 取材のおよそ1年後、昨年4月にようやく本が完成した。取材対象者全員に完成した本と一緒にお礼の手紙を送付した。すると、担当編集者のもとに真っ先に門田からお礼の電話があったことを伝えられる。

「手紙をいただいた松永さんによろしくお伝えください。ありがとう」

 あの門田博光がわざわざ電話をかけ、自分のことを話してくれただけで嬉しかった。門田から伝えられた言葉は、ありふれたお礼の言葉かもしれないが、自分にとっては宝物のような響きに聞こえた。門田が病魔に蝕まれながらも我々と対峙し伝えたかったことを、余すことなく世に伝えられるだろうか――。そう葛藤しながら門田と向き合った日々が報われた気がした。

 律儀な行動にあらためて門田博光という人間を窺い知れた気がする。たった数時間ではあったが、取材中の優しく振りまく朗らかな笑顔と、話の核心に迫る瞬間の眼光、そして何より球史に刻んだ門田の記録と生き様を一生忘れない。

【松永多佳倫】
1968年生。岐阜県出身。琉球大学卒業。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『第二の人生で勝ち組になる』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)、『確執と信念 スジを通した男たち』など

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―