<松竹100年初物づくしの軌跡と奇跡:全盛期編>

岸惠子(88)と佐田啓二が共演した「君の名は」3部作は、53年と翌年の興収で断トツとなり、岸のストールの巻き方はヒロイン名を冠して「真知子巻き」として大流行した。「会えそうで会えない」恋愛ドラマの原型もここにあり、ブームは過熱した。

「私はホントに怪物みたいな扱いを受けました。あることないこと芸能記事に書かれて、それはもう日本が嫌いになるほどでした」と振り返る岸は2年後、日仏合作「忘れえぬ慕情」への出演をきっかけにイヴ・シャンピ監督と結婚。パリに拠点を移してしまう。

後に世界の映画監督による投票(2012年、英映画協会)でベスト1となった小津安二郎監督の「東京物語」も「君の名は」と同じ年に生まれた。大船撮影所には日本初のカラー作品「カルメン故郷に帰る」(51年、高峰秀子主演)を撮った木下恵介監督もいた。後年「砂の器」(74年)を撮った野村芳太郎監督のデビューもこの頃だ。父・芳太郎監督に手を引かれ、少年時に撮影所を訪れた野村芳樹プロデューサー(71)は振り返る。

「撮影に使うためでしょうね。監督室のある建物は別荘風、俳優館は板ぶきの旧家風…という具合で豪華な雰囲気が漂っていた」

そんな中、東宝のスター岡田茉莉子(87)が移籍してきた。30歳で早世した父、俳優の岡田時彦は小津監督の盟友だった。

「小津監督は私のことをお嬢さんと呼び、撮影が終わる度に私を横浜に連れて行き、グランド・ホテルで食事。そしてダンスホールで一緒に踊りました」という岡田は当時20代になったばかり。好奇心が抑えきれず、小津作品の「4番バッター」を尋ねた。即座に「杉村春子」の答え。続けて「私は?」と聞くと「今は1番かな」と小津は笑ったという。監督と女優の親密さが伝わる。名コンビとうたわれた原節子は何番だったのか…。

大島渚、吉田喜重(87)篠田正浩(89)そして山田洋次(88)が入社したのはそんな頃だった。優雅な撮影所と対照的に世は不況。就職シーズンもとうに過ぎた年明け1月に行われた助監督試験には優秀な人材が詰め掛けた。

吉田監督には、東大大学院に進むつもりが父の失明で就職を余儀なくされた事情があった。面接官の木下恵介監督から「あなたは『君の名は』を見ましたか」と聞かれ「見ておりません」と答えるしかなかった。正直さが受けたのか合格。その木下監督に付いた。カメラマン助手から監督になった木下監督から構図やアングルを徹底的に学び、大船調とはひと味違うとがった演出で頭角を現した。

ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」に代表される一連の仏作品に影響を受け、50年代半ば入社の秀才たちは松竹ヌーヴェルバーグ(注<1>)と呼ばれた。山田監督が振り返る。

「一般的に認識されている『松竹映画』をどこかでバカにしているところがありましたね。目指すのはそんなところじゃない、と。でも、一方で小津安二郎がいたし、木下恵介もいた。若手では野村(芳太郎)さんもいた。この人たちは違うという思いもあった」

岡田茉莉子の100本出演を記念した映画「秋津温泉」を傑作に仕上げた吉田監督はこれをきっかけに岡田と結婚。その新婚旅行中に公開された「日本脱出」のラストシーンを無断でカットされたことが許せず、松竹を退社した。大島、篠田も撮影所を離れる。山田監督だけが残った。

「大島君たちはテーマ性にこだわった。僕は何というかなあ、小津安二郎みたいなものは作るもんかと思っていたけど。人間を、その生活を手に取るように描く−当時は古くさいといわれたけど、そこから離れられなかった。自ずと大島君たちとは道が分かれた」

一方で、「59年の皇太子ご成婚が大きい。150万台が売れました」と吉田監督が振り返るテレビの時代が到来していた。

70年代以降の松竹を支える山田監督の「寅さん」も実はテレビから生まれた。(つづく)【相原斎】

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【注<1>】松竹ヌーヴェルバーグ 大島渚の「青春残酷物語」(60年)のヒットをきっかけに奔放さや反権威の姿勢が仏のそれと似ていたことから命名。大島、吉田喜重、篠田正浩の3人の監督と彼らと関係のあった製作メンバーを指している。