【プレイバック「私が見た長嶋茂雄」】#15
“燃える男”、“ミスター”の愛称で国民的人気を誇ったプロ野球元巨人監督の長嶋茂雄さんが6月3日、都内の病院で肺炎のために亡くなった。享年89。選手、監督として数々の伝説、逸話を残した「ミスタープロ野球」は、身近に接した者それぞれに「長嶋茂雄像」を強く印象づけた。日刊ゲンダイの連載で多くの球界OBが語ってきたその実像を再構成して緊急公開しする。
今回は選手や指導者として50年もの間、13球団を渡り歩いた古賀英彦氏による連載「気がつけば13球団50年」(第10回=2010年)を再公開。本文中の年齢・肩書きなどは当時のまま。
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長嶋さんとおカネといえば、こんなことも思い出す。僕が巨人に入団した1962年のシーズンだった。当時は遠征の移動は列車が普通で、大阪や広島に行くのに8時間も10時間もかかった。選手たちは退屈しのぎによく車中で花札やポーカーを楽しんだ。
長嶋さんもやったが、すぐに、
「古賀、おまえ、代わりにちょっとやっておけ」
と僕に1000円札の束をガバッと渡すと食堂車に行ってしまう。当時の大学初任給が3万円といわれていた時代だ。でもアッという間に負けてしまう。
「長嶋さん、なくなりました」
食堂車に行き長嶋さんを見つけてこう言うと、またガバッと1000円札を渡してくれる。
フロリダでもそうだったが、長嶋さんは金銭に淡泊というか、物事にこだわらない。さすがに巨人のスーパースターは違うな、と思ったものだった。
そんな長嶋さんと久しぶりに再会したのは、僕がダイエーのヘッドコーチに昇進した年(1997年)、2月28日の巨人とのオープン戦のときだった。長嶋さんは2度目の巨人監督に復帰していた。その試合前だ。
「チョーさんのところに行こう」
と王監督が僕を、練習を見守る長嶋監督のところへ連れて行ってくれた。フロリダで会った後も巨人のOB会で何度か顔を合わせていた。それでも会うのは十何年ぶりだったと思う。
「ミスター、ハイディ(古賀氏の愛称)ですよ、昔チームメートだった。今、僕のチームでヘッドコーチをやってるんですよ。懐かしいでしょう」
「ウーム……元気だったか」
と言いながら長嶋さんは、僕の顔を見ながら誰だったか必死に思い出そうとしているようだった。
僕が「古賀ですよ」と言うと、長嶋監督はさも初めから分かっていたと言わんばかりにこう言ったのである。
「そうそう、そうだよな、古賀なんだよな」
長嶋監督と別れてロッカールームに戻るとき、王監督は、
「ミスター、名前を思い出せなかったみたいだな」
とクスッと笑ったものだった。
その試合、二回にダイエーが5点を先行したが、松井秀の本塁打などで追い上げられ、何とか2点差で逃げ切った。僕のヘッドコーチとしての最初の試合であり、長嶋監督の昔と少しも変わらないおおらかさを見たこともあり、今でも強く印象に残っている。
▽こが・ひでひこ 1939年、熊本県生まれ。熊本工、近大を経て62年に巨人入団。米マイナーやベネズエラなど海外でもプレーし、引退後は大洋、ダイエー、南海、ロッテなどで指導。90年には米マイナーで日本人初の監督に就任。04年からロッテ二軍監督を務め、09年オフに退団。その後も米国を拠点に野球指導に携わる。
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当連載【プレイバック「私が見た長嶋茂雄」】は随時公開。次回は、長嶋さんが立大時代の一茂氏の「学生らしからぬ行為」にブチ切れた珍エピソードについて。


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