9日に登場する土浦日大(茨城)は31年ぶり3回目の出場。これまでは代々、OB監督が指揮を執ってきたが、結果が伴わなかった。昨年4月、再建を託されたのは、取手二(茨城)の選手として84年夏に全国制覇した小菅勲監督(50)。法大卒業後、常総学院コーチなどを経て、下妻二(茨城)の監督として甲子園経験がある。「外様監督」が招聘された経緯と苦労を聞いた。

■しがらみを断ち切る

 ――小菅監督が呼ばれた経緯を教えてください。

「本校の理事長が言うには、OBというのはいろいろなしがらみがあって、一度そういうものを断ち切ろうと。理事長はバスケットボール界では有名な名将で、スポーツに造詣が深い人なので、野球部を立て直そうと考えられていた。歴代、みなさん教員監督じゃない。それだと、生活態度が悪くても見られない。私はもともと公立高校の教員なので担任もやりますし、部活動も学校生活の一環です。だからオファーをいただいたとき『専任監督は嫌です』と言いました。学校の様子を見ないで部活動だけというのはできないと。そうしたら『学校の方も見てくれ』と言っていただきました」

 ――着任した頃の生徒の印象は?

「やる気がないというか、前向きじゃない。それは授業にかかわらず野球に対しても同じでした」

 ――まず何から取り組んだのですか?

「まずは意識ですよね。ボール一球、キャッチボールやバッティングに対する意識。何げな〜くやっている練習だったので、まずいなと。一見、すごくきちんと練習をしているように見えるけど、観察していると意図の見えない練習ばかり。『何をやるか』ではなく、私が求めたのは『どうやるか』です」

 ――前監督のやり方を知る選手の反発はなかったんですか?

「今の3年生は当時、私を全く受け入れてなかった。今の選手って反発しないんです。表面上はハイハイと言う。そこが怖いところで、LINEで私の悪口を言っていたと思います。心を開いていないのは雰囲気で分かりました。距離感を大事にしながら、私の考えを知ってもらうために金曜と土曜に、寮へ泊まりに行って食事をしながら話をしていきました」

 ――監督の思いが響いてきたのは?

「ひと冬越えたあたりですね。冬の練習って限界まで行くので。千葉の海辺まで行って朝7時から夜7時まで35キロ歩き続けたり。今は月2回、選手に向けた野球日誌を書いています。リアルタイムで伝えたいときには(グループ)LINEを使う。“小菅監督のつぶやき”というのをつくって。メンバーは部員全員とスタッフ。口頭でも言うけど、LINEなら後で見直せる」

■「顧問弁護士を紹介された」

 ――OBたちの反応はどうでしたか?

「今年1月、OB会の50周年記念(の会合)に行ったときは60〜70代の方々の刺すような目線がとっても怖かったです(笑い)。久しぶりに怖さを覚えました。中には『おまえ、いい度胸してんな。ヨソモンがうちに来て』という言い方をされる方もいて、さすがにこたえました。(出身が)取手二で、かつては決勝戦を戦うライバル関係だったので、敵地に乗り込んできたという感じ。結果を出しても、負けたりすれば、また言われると思います。賞味期限のように、どこかで切れる。理事長は3日か5日に1回、私を理事長室に呼んで『苦労はないか』と聞いてくれて、顧問弁護士の方まで紹介してくれました」

 ――県立の下妻二から私立の土浦日大へ行くにはリスクもあったと思いますが。

「異動ではなく退職になるので、3〜4カ月悩みましたけど、最初に話をもらったときから、面白そうだと無意識に思っていたんでしょうね。女房に相談したら『いいんじゃない。やりたいんでしょ?』と。そんな後押しもあって、決断できました。(取手二の選手時代、常総学院コーチ時代の恩師で元監督の)木内(幸男)さんにも相談したら『50なんだから自分で決めろ。やりたいことをやれ』と(笑い)」

 ――請負監督としてノルマや条件は提示されたんですか?

「『何年以内に甲子園へ行け』とは言われませんが、『ぜひ』とは言われました。『まず、このぬるま湯体質を変えてくれ』と。思えば私はそういうチームばかり。初任校の伊奈高も下妻二高も。たぶんそういう役回りなんです。強豪校の先生はできないと思います」

 ――土浦も昔は強豪でした。

「昔はそう言われていたでしょうね。でも31年も逃しているということは、どこか間違っているからじゃないかと。現場で誰よりも選手を見てきた自分の感覚を信じていたので、いくら偉い人が何か言ってきても『はい』と言うだけ。全く聞いていません(笑い)」