――中島さんや奥山さんはクラスでどんな存在だったんですか。

「中島は大阪育ちでお笑いの感性の固まりみたいな感じ。たしか彼も中央線沿いに住んでいたと思います。みうらや僕らと一緒に酒盛りにも参加していました。みんな若い盛りですから、大勢集まったクラスメートの誰かが酒に酔って暴れ回って、警察を呼ばれたこともあります」

奥山清行さんの事務所兼ショールーム(東京都渋谷区)

「僕、みうら、中島の3人は、性格も個性もまったく違っていました。僕はサーファールックで勉強もせずに夏はサーフィン、冬はスキーばかり。自動車にも夢中になっていた軟派な遊び人タイプ。ただ絵を描かせるとそこそこうまいし、高校が進学校(山形東高校)だったので勉強はできると思われていた。とはいえ、みうらや中島ほど学校では目立った存在ではなかったです」

■度肝抜かれた中島信也の作品、プロ顔負けの広告写真

――大学での授業はどうだったんですか。

「最も印象に残っているのが写真の授業。一眼レフカメラを持ち、街角でひたすら人に声をかけて白黒のポートレートを撮影させてもらうんですが、1週間で36枚撮りのフィルムを60本も撮らないといけない。修業のような授業でした。そもそも白黒のポートレートって、被写体の人間性がよく出るんですよ。撮影する側のセンスもそのまま出てしまう。しかも街角で大勢に声をかけ、写真を撮らせてもらうにはかなりの勇気が必要なんです」

写真の授業で中島さんの作品を見て「天才か」と目を見張った

「その授業で、僕は中島が提出した作品に度肝を抜かれた経験があります。今でも忘れません。中島が撮影したのは、家の前で家族がニコニコと笑っている集合写真。そこにこんなコピーが付けてあった。『お馬がくれたマイホーム 日本中央競馬会』……。競馬で大穴を当て、家を買い、家族全員が幸せになったというストーリー仕立ての写真です。広告写真としても十分に通用するプロ顔負けの出来栄えだったので『これはすごい』と目を見張りました。あの時の衝撃は今でもはっきりと覚えています」

――すでに敏腕CMディレクターの片りんを見せていたんですね。

「ええ、天才かと思いましたよ。力強く浮かび上がる家族の笑顔、コピーの表現力、レイアウトやフォントの編集の技術……。そこには笑いがあり、リアルな家族のストーリーがある。人間の幸せを器用にいじくりながら、作品に仕上げてゆく作風や発想。あらゆる意味でセンスがズバ抜けていた。先生も驚いていたくらいです。中島はそんな才能を生かして卒業後、東北新社に就職します」

■みうらには周囲を驚かす大胆さ、同級生は個性派ぞろい

――授業での奥山さんやみうらさんの様子はどうでしたか。

「僕は『このまま日本で就職するのは嫌だ』と色々と迷っていた時期なので、その気持ちが写真に出ていた気がします。後半くらいから先生にようやく褒められるようになりますが、最初は怒られてばかり。おかげで僕は今でもレイアウトやスペーシング(文字周りのスペース)には結構うるさいんです。結局、僕は武蔵美を卒業後、米国に留学します」

みうらさんには周囲をあっと驚かせる大胆さがあったという

「みうらはシュールで暗い感じの写真を撮っていました。彼の内面に影のような暗い部分があるんでしょうか。よく分かりませんが……。普段は冗談を言って、周囲を笑わせているような明るい性格だったので、少し意外な感じがしました。でもあの頃から、みうらには周囲をあっと驚かせる大胆さがあった。ある日、スーパーで自分たちがそれぞれ欲しいと思うものを競い合うゲームをしてみたことがある。僕が目を付けたのは『スター・ウォーズ』の戦闘機の平凡なプラモデル。でもみうらが選んだのは、なんと店先に飾ってあるマネキン人形だった。ビックリしました。普通の発想とは違うんですね。中島やみうらに限らず、とにかく僕の周りには一癖も二癖もある個性派が集まっていました」