患者がスマホアプリなどに記録した体調や副作用の情報を治療に生かす。そんな「患者報告アウトカム(PRO)」と呼ばれる手法の試みが、がん医療などの現場の一部で始まった。画像や血液などの検査だけに頼らず、「患者の訴え」を治療の大切な指標にしようという考え方だ。見過ごされがちだった症状にも目を配り、患者の生活の質を高めるようサポートする。患者が自分の心身に向き合い、治療意欲を高める手段としても期待されている。

聖マリアンナ医科大学病院(川崎市)は7月、胃がん患者がスマホアプリで日々の体調や治療薬の副作用を報告する試みを始めた。免疫チェックポイント阻害剤と呼ぶ新しいタイプのがん治療薬を使い、2週間に1度の通院で治療する。担当の中島貴子教授は「新薬が効果を発揮するには副作用の管理が重要。アプリなら把握しやすい」と話す。

試みでは食欲不振や吐き気などの副作用について、患者が専用のアプリに記録していく。それを病院にいる医師が確認し、注意すべき副作用などが起きていないかをチェックする。

患者報告アウトカムはがん治療の領域で注目を集めている。背景にはがんの治療がここ10年ほどで大きく様変わりしたことがある。

通院治療する患者が増え、日常生活をより良い状態に保つことが治療の重要な目的になった。遺伝子異常のタイプで使い分ける分子標的薬や体に備わる免疫機能を使う免疫チェックポイント阻害剤などの新薬も相次ぎ登場。高齢でがん以外の持病を抱える患者も増え、「新薬の臨床試験(治験)に参加する患者よりも状態の悪い患者を治療することが多い」(中島氏)。

医師が経験したことのない副作用に直面したり、見過ごしたりするリスクが高まった。例えば、免疫チェックポイント阻害剤はだるさや食欲不振などの症状が出ることがあるが、その中に「従来の薬とはメカニズムが異なる危険な副作用がまれに隠れている」と中島氏は話す。軽い副作用に見えても、長引くことで生活の質を下げることもある。

こうした症状を拾い上げようと、アンケートで患者に報告してもらうことはあった。だが、症状を忘れたり、記録が面倒でやめたりしやすく情報を集める医療者側の負担も大きかった。

そこでスマホアプリを使う方法が注目を集める。記録しやすく医療者も手軽に確認できる。

聖マリアンナの試みでは医療系サービスのWelby(ウェルビー、東京・中央)が開発したスマホアプリを使う。同社の比木武代表は「副作用を共通の指標で評価する動きが広がってきた。デジタル技術で安く正確にできる」と話す。アプリには世界共通の副作用の評価項目を盛り込んだ。

「アプリが薬のような効果を持つ可能性もある」(比木氏)。米国では2017年に、副作用をオンラインで把握し対処することでがん患者の生存期間が延びたと報告され、関係者を驚かせた。

埼玉医科大学国際医療センターが開発した「フリックカルテ」

患者と医療者がチャットでやりとりし、より迅速な対応につなげる試みもある。埼玉医科大学国際医療センター(埼玉県日高市)が乳がん患者向けに取り組んでいる。がん治療を担当する医師や薬剤師が「フリックカルテ」と呼ぶアプリをソフトウエア会社と共同で開発した。同センターの佐伯俊昭病院長は「従来のがん医療に最も欠けていたのが治療中の患者を支える部分だ。そこに光を当てたい」と話す。

フリックカルテはさまざまな副作用の症状を患者が5段階で評価する。気になる症状やその対処法についてはチャットで質問でき、がん治療専門の薬剤師がそれに答える。言葉では伝わりにくい皮膚の症状は写真を添付できるようにした。

同センター薬剤部の藤堂真紀主任は「乳がんは子育てや仕事を抱える若い世代の患者も多い。電話では連絡しにくく患者も遠慮しがちなのでチャットは便利」と話す。進行した乳がん患者に通院での治療の合間にフリックカルテを使ってもらう研究を実施した。副作用で血圧が急上昇したことが分かり、迅速に対処できた例もあるという。

さまざまな不安を抱える患者を精神的に支える側面も大きい。「医療者とのやりとりが安心感や治療への意欲につながっている」(藤堂氏)

海外を中心に、製薬会社が新薬の治験にアプリを使う動きも出てきた。薬の効果を高めたり実際の患者のデータを集めたりする手段として「薬とアプリを併せて提供する製薬会社が増えた」(ウェルビーの比木代表)。アプリが患者と医療者の新たな関係を切り開き始めた。

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■AI活用で導入後押し

患者報告アウトカムの活用は現状では研究としての取り組みが多い。聖マリアンナ医科大学の中島教授は「医療者側の負担に見合う診療報酬(保険点数)が付くことが、患者報告アウトカムの普及には欠かせない」と話す。患者との情報共有は質の高い治療につながる可能性が期待できるが、一方で、システム導入費がかかったり、医療者側の負担も増えたりすることが予想されている。病院経営上のメリットがなければ採用は進みにくい。

人工知能(AI)などを活用して情報の収集や分析を自動化していく必要もありそうだ。埼玉医科大学国際医療センターのフリックカルテは「毎日決まった時間に体調を尋ねるようなやりとりはチャットボット(AI)に任せている」(同センター薬剤部の藤堂主任)という。こうした工夫によって忙しい現場にも受け入れられやすくなる。

(大下淳一)

[日本経済新聞朝刊2019年10月14日付]