10月27日に95歳で亡くなった沖縄初の芥川賞作家、大城立裕(おおしろ・たつひろ)さんは戦争に関する作品を多く残した。1944年、学童ら疎開者を乗せた対馬丸が米潜水艦に撃沈され約1500人が亡くなった事件では、生存者らを探し出して丁寧に聞き取りを行い「悪石島」(共著)を刊行。疎開という国策によって子どもたちが犠牲になった事実を白日の下にさらした。生存者や遺族は大城さんの死を悼み「先生がいなければ対馬丸の悲劇は世に出ていない。託された平和のバトンを後世につないでいきたい」と誓った。

 事件から16年後の60年、遺族会は当時無名だった大城さんら地元作家3人に記録執筆を依頼した。ただ、この時、大城さんは事件について知らなかった。

 なぜか。生存者で、家族9人を失った対馬丸記念館(那覇市)の館長、高良政勝さん(80)によると「事件後、生存者や遺族には憲兵からかん口令が敷かれていた」からだという。

 事件1カ月前に国が絶対国防圏と定めたサイパンを陥落させた米軍は、次に沖縄を侵攻するとみられた。食料事情の悪化もあり、国は戦争の足手まといになる子どもの疎開を促していた。対馬丸の事件が知れ渡ってしまえば疎開が進まなくなることを恐れ、生存者らに“圧力”をかけたのだった。高良さんは「かん口令のトラウマと自分だけが生き残った罪悪感で語ることができなかった」と話す。

 事件に関する資料もほとんど残っていなかった。大城さんは2015年の本紙取材に「資料は何もなく、ひたすら聞き取りをするしかない。生存者を探し出すのも非常に困難だった」「資料がないから小さな事実を積み重ねるしかなかった」とし、生存者の記憶頼みの取材では、対馬丸が那覇を出港した日の特定すら難しかったとも語った。

 こうして61年に刊行された「悪石島」は、大城さんが67年に小説「カクテル・パーティー」で芥川賞を受賞したことで再評価され、「対馬丸」に改題後、出版元を変えながら幾度も刊行された。巻末には犠牲者の名簿を収め、改訂するたびに新たに判明した情報を加えた。アニメ映画や絵本にもなった。晩年には沖縄の伝統芸能「組踊(くみおどり)」の作品として「国家の暴力によって子どもたちの日常の友情と夢を砕いたという恨み」を込めて描いた。今年1月、那覇市で組踊が上演された際にも車いすで訪れた。

 対馬丸事件で2人の姉を失った遺族で、記念館を運営する対馬丸記念会の常務理事、外間(ほかま)邦子さん(81)は「作品がなければ記念館もなかったかもしれない」と語り、「夢を絶たれた子どもたちの無念さを作品にして、今を生きる子どもたちに平和の尊さを伝えてくれた。本当にありがとうございました」と目を潤ませた。 (那覇駐在・高田佳典)

【対馬丸事件】1944年8月21日、沖縄・那覇をたった対馬丸は、22日夜に鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分後に沈没した。国民学校の学童や教員、一般疎開者ら乗船者1788人のうち1484人(判明分)が死亡。犠牲者のうち学童は784人で、6歳以下の子どもを含めると千人余の幼い命が犠牲になったとされる。助かった280人のうち21人が奄美大島付近に漂着した。