1960年代前半からサファリに本格参戦を始めた日産に比べ、トヨタによる体系立ったラリー活動はほとんど見られなかった。しかし、70年代中盤にTTE(トヨタチームヨーロッパ)が設立されてオベ・アンダーソンが代表に就くと、トヨタのラリー活動は一気に本格化。日本メーカー初のWRCレギュラー参戦を果たし、王座に君臨するラリーの名門ランチアと死闘を演じた末にタイトルを獲得。立役者となったのはターボ4WDのグループA、セリカGT-FOURだった。

【トヨタ セリカ GT-FOUR Gr.A for WRC Vol.2】【1】から続く

 セリカは、同じFRながらオペルや日産に対してはターボを備えた分だけ優位に立っていたが、ターマックではミッドシップ・スーパーチャージャーのランチア・ラリー037、グラベルではターボ+4WDのアウディ・クワトロが一段上を行っていた。

 そして究極ともいえるプジョー205T16やランチア・デルタS4の登場となるわけだが、高性能化に歩調を合わせて死亡事故が頻発。とくにA・ベッテガ、H・トイボネンとツール・ド・コルスで2年続いたランチアワークスの死亡事故は衝撃的で、文字どおり殺人的な高性能が災いして、グループB規定は幕を閉じることになった。


【画像11枚】ケルンナンバーがTTEの車両であることを示しているグラベル仕様のリアビューなど


 これに代わり1988年から採用された規定がグループAで、量産車の基本性能をベースとするためスピードとパワーはグループB時代に及ばないと見られていたが、その後、改良の積み重ねでグループBを凌ぐタイムにまで進化。

 グループA規定のポイントは、量産車の基本メカニズムで戦わなければならないことで、グループ4時代のように事後の改造によって性能を引き上げる手法は封じ込まれていた。

 こうした状況で主導権を握ったのはランチア。グループB時代に突入した際は、アウディのみが4WDのテクノロジーを持ち、唯一の4WDカーとして優位に立つ時期もあったが、グループBからグループAへの移行時期には、すでに各社とも4WDのテクノロジーを持ち、駆動力配分などの4WD活用技術は、むしろ老舗アウディに先行するメーカーがいくつかあった。

 ちなみに、WRCがグループA化された88年は、サーキットレースのグループAが7シーズン目に突入した時期で、すでに勝てる車両の取捨選択というか淘汰は終わり、フォード・シエラRS500とBMW・M3が生き残っていた。

 しかし、サーキットレースとはまったく条件が異なるラリーフィールドでは、ターボ+4WDのメカニズムが必要不可欠で、ランチア・デルタHF(初期モデル名)が幅をきかせる流れになっていた。そして、唯一これに対抗できた存在がトヨタ・セリカGT‐FOURで、世界的に見てもWRCで戦えそうな4WDカー、すなわち高性能エンジンとセンターデフを持つフルタイム4WDの車両は、ヨーロッパ・フォード(シエラ、エスコート)以外は日本車に集約される状況にあった。




90年代初頭はアナログ時代の最終期。メーターフェシアには丸形アナログメーターがずらりと並ぶ。シフトもまだHパターンの時代。ミッションはXトラック製の6速を使用。タコメーターのレッドゾーンが9000rpmからというのが興味深い。最高出力は6000rpm。リストリクター対策のエンジン作りがうかがえる。



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