海外でニッボン旧車がどのように乗られているか、またオーナーたちはどのような人たちなのか……。そんな興味を毎号掘り下げていく企画で続いている連載。
今号ではアメリカを離れて、東南アジアの国「マレーシア」で取材を敢行した。現地は日本と同じ左側通行で、右ハンドルのクルマが基本。日本車輸入天国かと思いきや、マレーシア独自の自動車産業が発展していたのだった。

【ニッポン旧車の楽しみ方 2016年 マレーシア・スペシャル Vol.2】

【1】から続く

 マレーシアという国は日本からそれほど遠くない。沖縄よりもさらに南に下った赤道付近、東南アジア一帯は、密集する島をまたいだり半島を分けあったりして複数の国が入り組んで存在している。それらの国々の中で国土の半分が半島(マレー半島)、残り半分が島(ボルネオ島)の一部分というのがマレーシア。合わせた国土面積は日本より少しばかり小さい。さらに国土に埋め込まれるようにシンガポールとブルネイというごくごく小さな国が存在しているのもユニークな点だ。

 同地域の海洋に広がるあと2つの国、インドネシアとフィリピンとともに、こんな国土分布になった理由は太平洋戦争前後の歴史が詳細を語ってくれる。マレーシアはイギリス領、インドネシアはオランダ領、フィリピンはアメリカ領だった。これらの国々がそれぞれ国家独立を果たしたタイミングが、先に戦後から立ち直っていた日本の自動車産業勃興期と重なった。日本から近いこともあって東南アジア諸国は日本車の格好の海外市場となった。

 実はこの3国とも日本が占領した時代がある。それは太平洋戦争中の1942年。今から74年前のことだ。1945年に戦争が終わると日本は去っていった。ところがそれから四半世紀がたったとき、日本人はまたやって来た。今度は武器ではなく、クルマを持って。


>>【画像25枚】若年層が主体だったマレーシアの日本旧車ファン。突然会場に現れた本物のパトカーなど


 日本車はその長所をもってして、すぐにこの地を席巻した。1975年のマレーシアの自動車販売記録を見ると、19社(欧11、米2、日5、豪1)が名を連ね、7月の月間販売台数(3413台)はダットサン、トヨタ、マツダがトップ3位を独占。9位のコルト(三菱)を加えると日本車は全体の48%に達した。かつて日本が占領した国で日本車は滞りなく販売され、そしてユーザーに受け入れられた。70年代には戦争を実体験した人たちが社会の中心世代になっていたに違いない。複雑な感情があったことだろう。

 似たように日本車が市場を席巻したアメリカでは、後の80年代にジャパンバッシングの手痛いしっぺ返しをくらった。これに対して自動車産業をまだ持たなかった東南アジアの国々は、自国の工業発展を促すために、先に発展を遂げた日本から自動車生産技術を導入しようと考えた。政治の指導力によって国内産業を工業化へと舵を切ろうとしたマレーシアだったが、この国特有の民族問題を抱えていた。

 具体例がホンダの進出に見られる。ホンダは他に先駆けてマレーシアへ進出したのだが、そこには中国出身だった駱文秀という人物の存在があった。50年代にイギリス製2輪車の輸入販売を手がけた彼は1957年に日本へ旅行した際、ホンダの2輪車に出合い感動。本田宗一郎さんに会い、翌年には家族企業がマレーシア(当時はマラヤ連邦)への独占輸入を取り付けるなど、素早く動いた。ホンダ製2輪車が売れ筋になると、次はカー(Kah)モーターアセンブリー社を設立して現地組み立てを始め、さらには1967年オリエンタルアセンブラーズ社を設立し、ここではホンダ4輪車の組み立てを独占で請け負った。

 マレーの土地にとっては移民の立場であった中国系マレーシア人は華人ネットワークと天性の商才をふんだんに駆使し、ぐんぐんと経済力をつけていった。先住民であり元来マイペースで生活していたマレー系マレーシア人は、中国系の勢いに圧倒されながら気を揉むばかりだったのである。


【3】に続く