7月4日発売の『フランス・フットボール』誌では、6月29日に心臓マヒにより74歳で亡くなったモンペリエのルイ・ニコラン会長を大きく取り上げている。

 フランス国内では誰もが知っている。ヨーロッパでも非常に有名。だが日本ではほとんど知られていない……という人物がいる。フランスでは、ギィ・ルーとルイ・ニコランがその典型だろう。

 1961年、23歳の若さで当時3部リーグに所属のオセールの選手兼監督に就任したギィ・ルーは、2005年に引退するまで44年間('00年に一度退任し'01年に復帰)同クラブの監督を務め、'95〜'96年シーズンには1部リーグ優勝にまで導いた名伯楽である。

 一方のルイ・ニコランも、ゴミの回収業により一代で財を成し(今日、ニコラングループは従業員5000人を抱え、総収入は年間3億ユーロにも達する)、街角の1クラブに過ぎなかったモンペリエ・エロー(74年の会長就任当時は「モンペリエ・パイヤード・スポーツクラブ」)を、2012年にはリーグ1を制覇するまで成長させた立志伝中の人物である。

 1部と2部を往復するエレベータークラブでしかなかったときからモンペリエは、ロジェ・ミラやカルロス・バルデラマ、エリック・カントナ、ローラン・ブラン、エメ・ジャケといった選手や監督を獲得し異彩を放っていた。また、'03〜'04年シーズンは広山望、'10〜'16年は宇津木瑠美、'11〜'12年は鮫島彩が在籍するなど、実は日本とも関係が深い。

 かくいう筆者(田村)も食事に招かれたり、'98年フランスワールドカップ直前には所有する牧場内の闘牛場でおこなわれた闘牛に、他のジャーナリストたちとともに招待されたこともある。

 他方でニコランは、世界的なユニフォームのコレクターとしても知られていた。

 ニコランが傾けたサッカーへのもうひとつの情熱を、彼をよく知るジャンマリー・ラノエ記者がレポートする。

監修:田村修一

世界的にも稀なユニフォームの巨大ミュージアム。

 今年2月、ルイ・ニコランはおよそ5000枚のユニフォームを収蔵する自らのミュージアムに『フランス・フットボール』誌を招待した。そのコレクションには、世界的な貴重品も多く含まれるのだった。

 彼が思い起こすのは……懐かしいジョルジュ・ブリッケ(1930〜50年代にかけて活躍したジャーナリストで、スポーツ番組のラジオ・レポーターでもあった)の鼻にかかった声だが、それを聴いたのはそう遠い昔ではない。はじまりは27年前、きっかけは偶然に過ぎなかった。

「1990年6月2日、フランスカップに優勝したディフェンダーのフランク・ルケージが、ユニフォームを会長である私に贈呈したんだ!」

 その日、恐らくヨーロッパでも類を見ないミュージアムでルイ・ニコランは、縦横無尽に走り回る電動カートを、かつて自らのクラブの選手が着ていたユニフォームの下で止めたのだった。

 そのユニフォームは、白地に青の縁取りがあり胸には「RTL」(当時の胸スポンサーであるメディア企業)の文字が描かれていた。

サッカーだけで5000枚。他のスポーツで4000枚。

 モンペリエとニームの間に位置するマルシヤルグに建てられたミュージアムを訪れたわれわれをガイドするにあたり、彼はコレクションの原点となった記念すべき最初のユニフォームから説明を始めたのだった。

「試合後に彼(フランク・ルケージ)からユニフォームを手渡された。だから私は言ったんだ。『もしも君がすべてのユニフォームを手元に残していたら、大変なコレクションになっていただろう』と。それがはじまりだった」

 まさかニコラン自身も、サッカーはもとより様々なスポーツのユニフォームを、これほど長きにわたり集め続けるとは想像できなかったのだろう。だがそのコレクションは、今やサッカーだけで5000枚に達し、他のスポーツも4000枚に迫ろうとしている。収蔵するミュージアムも、1800平米の広さを誇るまでに拡張していた。

 かつては大きなキャビネットの中に水平に並べられていたが、今は1枚ずつガラス張りの額縁に収められ、クラブやテーマごとにまとめて飾られている。

ニコラン会長にとってユニフォームは単なる物ではない。

 それぞれのユニフォームには、管理責任者であるクリスタン・ペラタンの解説が添えられ、見渡しながら歩くと、まるでスーパーマーケットのカラフルな商品棚の間を彷徨っているような錯覚に陥る。

「ここはユニフォームのブティックではない」とニコランはいう。

「これらはみな選手とともに生き、彼らの汗がしみ込んでいるんだ!」

 実際に驚きの連続である。突然、目の前に現れた黄色のユニフォームは“キング”ペレのものだった。もしもビデオの解説がつくのであれば、その中でニコランはこう言うだろう。

「このユニフォームは、チリ協会の会長が私の友人であるミシェル・プラティニがチリを訪問した際に贈ったものだ。'62年にチリでワールドカップが開催された直後の10月におこなわれたチリ対ブラジルの親善試合でペレが着ていたもので、ほら、よく見てくれ。まだワールドカップ優勝を示す星が縫いつけられていないだろう」

ひと財産にもなりそうな高額な品もあるが……。

 ペレのユニフォームのエピソードは、希少性を示すもうひとつのエピソードにつながっている。

「ある詐欺師が、'70年ワールドカップでペレが着たユニフォームを7万ドルで売りたいと持ちかけてきた。それで当時の『レキップ』紙をインターネットで検索し、チリの国立図書館にも問い合わせたが、写真を見ると当時のブラジル代表のユニフォームにはやはり星は縫いつけられてはいない。3つの星が描かれるのは、3度目の優勝を果たした後の'71年1月からなんだ」

 ニコランのもとには、ほとんど毎朝のようにユニフォームが届けられた。その梱包を破って、骨董品を愛でるように中身を確かめるのが彼の楽しみだった。最も有力な入手元はイギリスに無数に存在する専門の業者たちであり、『ドゥルオー』をはじめとする各種のオークションであった。

「ここにあるすべてを掲載したリストを作った。それを元に、珍しいものを求めてしばしば海外にも出かける。ときにひと財産に相当するような貴重品もあるが、そうしたものには注意が必要だ。権威ある証明書つきでないと、偽物を掴まされかねないからな。最近手に入れたのは、オマール・シボリとサンドロ・マッツォーラのものだ。レフ・ヤシンも競売にかけられていた。ある大会の決勝で彼が着たものが、『クリスティー』で13万ドルで売られていたんだよ」

プラティニから贈られた、数多くの貴重な品。

 ニコランが最も喜んだのは、友人たちから贈られる予期せぬ贈り物であった。

 ガラスケースの中には、毎年のチャンピオンズリーグ決勝で使われたボールが飾られている。前UEFA会長で、気の置けない友人でもあるミシェル・プラティニの便宜により手に入れたものである。アルフレッド・ディステファノの白いユニフォームも同様である。

「あまり綺麗じゃないだろう。これは彼がバロンドールを受賞した年のもので、『フランス・フットボール』誌の編集長だったマックス・ウルビニがくれたんだ。彼のような偉大なジャーナリストは、今の時代にはもういない」

 どうしても欲しかったのが黒クモの異名を持つヤシンのユニフォームであった。

「黄色いユニフォーム」をヤシンは着たのか?

「長い間探し求めて、ようやく手に入れた。あらゆる手段を使ってね。イギリスのあるオークションで無理やり落札したんだ。黒いユニフォームがトレードマークであったのに、驚くことにそれは黄色だった。しかも当時は、1年を通して同じユニフォームを着続けるのが普通だった。その意味でもとても貴重だ」

 それは史上最高のゴールキーパーといわれるヤシンが、'63年10月23日におこなわれたイングランド対世界選抜戦(FA創設100周年記念試合)で着用したもので、たしかにニコランの語る通り唯一無二の貴重なものであった。

貴重なユニフォームから浮かび上がる、驚くべき史実。

 彼のミュージアムには、こうした驚きに満ち溢れている。

 そこには'78年アルゼンチンワールドカップで、プラティニとフランソワ・ブラッチ、マルク・ベルドルが着用した緑と白の縦じまユニフォームもある。マルデルプラタでのハンガリー戦に臨んだフランス代表が、ハンガリーと同じ白いユニフォームを間違えて持参したために、急きょ地元のクラブ・アトレチコ・キンベルレイから借りて間に合わせたのであった。

 サンティエンヌの名物会長であったロジェ・ロシェにも触れておこう。

 マネキンが纏っているのはマフィアを彷彿させる縦じまストライプのスーツで、パイプとともにロシェのトレードマークであった。1976年5月12日、グラスゴー・ハンプテンパークでのバイエルン・ミュンヘンとのチャンピオンズカップ決勝で、まさにロシェが着ていた実物のスーツである。ここは“レ・ヴェール(サンティエンヌの愛称)”のミュージアムではない。だが、ロシェのスーツが何故かここにある。

「それは本人が私にくれたからさ。実は彼の息子のジェラールととても仲がよくて、同じ学校(リヨンのクール・パスカル)に通っていたし一緒にサッカーもプレーしていたんだ」

パパン、リベラらのユニフォームが欠けている……。

 友人たちとの絆の跡は他にもたくさん見られる。

 若きプラティニがナンシー・ロレーヌで着用していたものや、ミシェル・メズィが'80年フランスカップ準々決勝、モンペリエ対サンティエンヌ戦で着用したもの、そしてヨハン・クライフが、ニーム対アヤックスの親善試合で着ていたもの……。

 それぞれのユニフォームに物語があり思い出がある。それを収集するのは、ニコランにとって過去との対話であり今日の自分のアイデンティティ――自分が自分であることの証明でもあった。

 これだけ集めながら、欠けているものがまだ幾つかある。

「ジャンピエール・パパンがバロンドールを受賞した年('91年)のユニフォームがそうだ。ジャンニ・リベラ('69年の受賞者)のものもない。彼は今、EUの議員になっているが、なかなか手に入れる機会がなくて……」

 その機会が永遠に失われたのが残念でならない。

文=ジャンマリー・ラノエ

photograph by Patrick Gherdoussi/L'Equipe