甲子園の予選である各都道府県の地方大会が始まった。早稲田実業の清宮幸太郎など、今年も話題満載だ。

 高校野球は現在、延長15回で引き分け再試合になる。かつてはそういう規定がなくて、1933年の明石中(当時は中等学校)、中京商戦のように延長25回という試合もあった。

 引き分け再試合となる制度が導入されるきっかけに、ある有名な野球人、というか芸能人がからんでいることをご存じだろうか。

 ときは1958年4月、野球王国・四国に1人の豪腕投手が表れたのだった。その名は徳島商業高校の板東英二だ。

延長16回を投げたのち、中1日で延長25回を完投。

 3年生の板東は、四国の春季大会で圧倒的な力量を示して勝ち進んでいた。

<徳島県高校野球春季大会>
・2回戦  徳島商 3−0 徳島農
・準々決勝 徳島商 11−0 脇町(8回コールド)
・準決勝  徳島商 7−0 小松島
・決勝   徳島商 2−1 海南(延長12回)

<四国地区高校野球春季大会>
・1回戦 徳島商 2−1 高知商(延長16回)
・決勝 高松商 2−0 徳島商(延長25回)

 板東はひとりで徳島県大会の38イニングを投げぬき、自責点1の好投を見せた。四国大会でも板東は中1日で合計41イニングを投げた。決勝戦では高松商の石川陽造(のち東映)も1人で25回を投げ、25回表に板東が2失点して決着がついた。

板東らの投げすぎを、高野連も問題視した。

 この試合はスポーツ紙などでも取り上げられ、板東、石川の名前は一躍有名になったが、高野連は選手の健康面を問題視して、夏の甲子園から高校野球特別規則に以下の1項目を追加した。

22.延長回数の制限
 選手の健康管理を考えて延長戦は18回で打ち切り、後日改めて再試合を行う。(規則7.01)※2000年から延長戦は15回で打ち切り、再試合となる。

 新規則は同年夏の大会から適用された。

 その年の下馬評は板東と強打者・広野翼(のち阪急)らを擁する徳島商が本命だった。その通り、徳島商は快調に勝ち進んだ。

<全国高校野球選手権大会 徳島大会>
・2回戦 徳島商 7−0 小松島(7回コールド)
・準々決勝 徳島商 9−2 穴吹(8回コールド)
・準決勝 徳島商 1−0 鳴門
・決勝 徳島商 5−0 撫養

夏の甲子園に行っても引き分け再試合を経験。

 徳島商は順当に全国大会に駒を進め、1人で投げぬいた板東は大会屈指の好投手として甲子園でも獅子奮迅の活躍を見せる。 

<全国高校野球選手権大会>
・2回戦 徳島商 3−0 秋田商 17奪三振
・3回戦 徳島商 3−1 八女 15奪三振
・準々決勝 徳島商 0−0 魚津 25奪三振(延長18回、引き分け再試合)
・準々決勝再試合 徳島商 3−1 魚津 9奪三振
・準決勝 徳島商 4−1 作新学院 14奪三振
・決勝 柳井 8−0 徳島商 3奪三振

 板東は、この春、自分の投球がきっかけで導入された新規則の適用第1号になって、引き分け再試合をすることになった。相手の魚津(富山)の村椿輝雄も1人で投げ切ったのだ。そして翌日の再試合も村椿との投げ合う場面もあったが、板東は1失点で投げ勝った。

「ぼくはあまり疲れてはいなかった」と意地を張った。

 板東は前日の試合で野手と衝突し、膝を痛めていたが麻酔薬を打って登板。試合後「まだへばらない」と語るなど、驚異のスタミナだった。ちなみに「一球入魂」で有名な野球指導者の飛田穂洲は「いままでにあれくらいいい試合はなかったと思う」と感激したほどだったという。

 柳井との決勝戦後、新聞は「板東、ついに力尽く」と書き立てた。確かに奪三振も減り、相手ナインもボールがよく見えたとのコメントを残したが、板東本人は「ぼくはあまり疲れてはいなかった」と意地を張った。徳島商の須本監督も「板東がこれだけ打たれたんだから、いうことはない」と言った。

 この大会で板東がマークした「奪三振83」は、いまだに夏の大会の記録として残っている。

新入団当時の注目度は王、張本より上だった?

 その後、板東は慶應義塾大学に入学するつもりでセレクションを受けたが、家計が苦しく中日ドラゴンズに入団する。同級生の王貞治は巨人に、張本勲は東映に入団したが、注目度では板東が一番だった。

 後年、解説者になった板東が中日vs.巨人戦の解説を担当した際のやり取りが忘れられない。

板東「何を隠しましょう、王貞治選手と私は、同期の桜でして。入団した時は、私の方がずっと有名選手でした。今や月とスッポンですが」

アナ「……」

板東「そんなことない、って言わんかー!」

 今では信じられないような話だが、当時は本当のことだったのだ。

伸び悩んだ板東がつかんだリリーフエースの地位。

 中日入団後、板東は前年引退した大エース杉下茂の後継者として期待がかかるが、1961年の12勝以降は伸び悩み、1963年からは救援に転向する。当時の救援投手は「先発投手より力が落ちる投手の持ち場」という認識があったが、板東は救援投手になってから頭角を現した。

 1965年、巨人・宮田征典が今の基準に当てはめれば22セーブ、41セーブポイント(セーブ+救援勝利数)を記録した。宮田は日本初の本格的なクローザーとして「8時半の男」と言われたが、このとき板東は11セーブ、21セーブポイントを記録し、リーグ2位にあたる成績だった。

 ただ宮田と板東の違いは翌年以降の成績に出た。宮田の成績が下落する一方で、板東は1966年は11セーブ、24セーブポイント。1967年は7セーブ、21セーブポイント。いずれも当時の成績で言えばリーグ1位、NPB全体でも1位にあたるものだ。

 昭和中期のクローザーは、大エースが先発登板の間に掛け持ちするものだった。金田正一、稲尾和久、杉浦忠などは、救援でも大活躍した。

 しかし板東はNPBでは最初の、救援だけに徹した「リリーフエース」になったのだ。

星野、鈴木、岩瀬とつながるクローザーの系譜の元祖。

 中日ドラゴンズのリリーフエースの系譜は、板東が引退した年に明治大学から入学した星野仙一(1974年初代セーブ王)、鈴木孝政(3年連続最多セーブ)へとつながっていく。

 NPB最多セーブの岩瀬仁紀につながるドラゴンズのクローザーの系譜は、板東英二に始まると言ってもよいかもしれない。

 余談だが、板東と同期の王貞治ソフトバンクホークス会長は最近、福岡で「王さんって、昔、巨人で野球していたって本当ですか?」と聞かれたことがあるのだという。

 王会長でさえそうなのだから、板東英二が昔、野球選手で、甲子園でもプロ野球でも画期的な活躍をした投手だったことを知る人など、ほとんどいないだろう。

 いろいろあってしばらくメディアから消えていた板東だが、最近またちらほら見るようになった。77歳、そろそろ「ボクってすごかったんやでー」と言ってもよいのではないだろうか。

文=広尾晃

photograph by Kyodo News