ボクシング界に大きな足跡を残した名門、ヨネクラボクシングジムが8月いっぱいをもって閉鎖される。米倉健司会長が1963年に創設した同ジムは、半世紀あまりの間に世界王者5人、東洋太平洋王者9人、日本王者31人を輩出した(複数の王座を獲得した選手がいるためタイトル獲得者は計36人)。

 惜しまれつつ姿を消すヨネクラジムだが、そのDNAはOBたちによって受け継がれようとしている。

 ヨネクラジムの閉鎖が発表されたのは4月下旬のこと。創設者の米倉会長が83歳と高齢で、選手の指導がままならなくなったことを理由に、54年の歴史に幕を閉じることになったのだ。

ガッツ石松、大橋、川島ら計5人の世界王者を輩出した。

 米倉会長は明治大在学中の1956年、メルボルン五輪に出場するなどアマチュアの名選手として活躍。プロでも日本、東洋王座に就き、日本で初めて世界王者となった白井義男氏に続こうと、世界タイトルに2度挑戦したが、これはかなわなかった。

 アマ、プロを通して文句なしのキャリアを残した米倉会長だが、引退後にプロモーターとして発揮した手腕は、選手時代をしのぐものだった。

 ジム創設から7年後の1970年に、早くも柴田国明をWBC世界フェザー級王者に育て上げ、ここからガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志と計5人の個性的な世界王者を生み出した。生前に8人の世界王者を輩出した協栄ジムの故金平正紀会長と並ぶ“チャンピオンメーカー”としてその地位を不動のものとした。

 その米倉会長が“150年に1人の天才”のキャッチフレーズで売り出し、1990年に世界王者となったのが大橋秀行・現大橋ボクシングジム会長である。米倉会長の薫陶を受けた大橋会長は現役引退後、ジム経営者として4人(女子を含む)の世界王者を誕生させ、2010年から2016年まで日本プロボクシング協会の会長を務めた。

現役時代から大橋氏はジム経営者の帝王学を学んだ。

 そんなボクシング界の若きリーダーとも言える大橋会長は、ジム経営者としてのすべてを米倉会長から学んだと話す。

「自分は現役時代から米倉会長にボクシングの技術以外のこと、ファイトマネーの話やスポンサーとの付き合い方、細かいことまで本当にたくさんのことを教わりました。おそらく米倉会長は自分が将来、ジム経営者になることを予測していたんでしょう。だから普通なら選手に教えないようなことも教えてくれたんだと思います」

 大橋会長は選手のセコンドに入ると、インターバルで最上段のロープにアゴとヒジを乗せ、相手選手にちらちらと視線を送りながら、選手にアドバイスをささやく。「キミのことは全部お見通しなんだよ」と相手を威圧する姿は、米倉会長と瓜二つだ。大橋会長によれば、真似しようという意識はまったくなく、自然にそうなってしまうのだという。

1週間毎朝、米倉会長からスカウトの電話が……。

 そこまで米倉会長の影響を受けた大橋会長が、ヨネクラジムに入門したいきさつが面白い。

「実は花形ジムからプロ入りすることが決まっていたんです。そこに米倉会長からスカウトの電話がかかってきた。1週間毎朝です。もう花形ジムに決まった話ですから、最初は断ることになったんだけど……」

 当時、元世界王者の花形進会長は新たなジムを立ち上げようとしていた。新生・花形ジムの目玉となるのが横浜高でインターハイを制し、専修大でロサンゼルス五輪出場を惜しくも逃し、大学を中退してプロ入りを決意した大橋会長だった。

 ところが、である。

「花形会長が、お前の将来を考えたら、ヨネクラジムのほうがいいんじゃないかって言いだすんですよ。オレはジムをやるの初めてだし、よく分からないからって。いや、いまさらそう言われてもと思いましたけど(笑)。慌てて米倉会長に会って、ヨネクラ入りが決まったんです」

「ヨネクラじゃなかったら世界王者になれなかった」

 いつもひょうひょうとして、来る者を拒まず、去る者を追わず、という花形会長の器の大きさが大橋会長の人生を決定づけた。

「たぶん花形ジムに入っていたら、地元の横浜だし、遊んじゃったと思いますよ。花形会長は厳しくないし(笑)。それが急きょヨネクラに入って、会長の自宅のそばの寮に住んで、すべて管理された。練習はきつくて、最初はついていけなかったほどです。ほんと、ヨネクラじゃなかったら世界チャンピオンになれなかったと思いますね」

 大橋会長はこう振り返った。彼が現役時代を過ごした世田谷区中町の寮には、現在もヨネクラジムのボクサーが住んでいる。フェザー級の23歳、長野県上田市出身の溜田剛士だ。中学を卒業と同時に上京、2009年にヨネクラジムに入門した。父親が高校時代、ヨネクラで東洋太平洋王者までなった西澤ヨシノリの後輩だったという縁があった。

「中学卒業前に体験練習をさせてもらいましたけど、名門とかは全然分かってなくて(笑)。つないでくれた西澤さんは『他のジムがいいなら、よそも紹介するぞ』と言ってくれたんですけど、ジムの雰囲気とか、ニコニコしながら『強くなるぞ』っていう米倉会長の人柄がなんかよかったんですよね。よそは見ないでヨネクラに決めました」

木造2階建ての“道場”に15歳から通い続けた溜田。

 JR山手線目白駅から徒歩で5分ほど。線路沿いに建つ木造2階建てのジムは、8年前でも既に古めかしく、ジムというより“道場”という表現がピタリとくる。あまたの若者たちが流した汗と血で変色した板張りの床を、長野をあとにした15歳の少年も踏みしめることになったのだ。

 溜田が入門したころ、ヨネクラは既に斜陽の時期に差し掛かっていた。ジムにはチャンピオンが1人もいなかった。少子化やボクシング人気低迷の影響もあり、選手やトレーナーは年々減っていった。

 そんな状況にあって、ホープとして期待された溜田は持ち前の強打を武器にデビューから5年で16戦13勝(11KO)1敗2分という戦績を残す。一時は日本タイトル挑戦も視野に入ったが、昨年は自身初の連敗を経験。1度は手にした日本ランキングも手放した。

ジム閉鎖で、窮地の溜田を救ったのは大橋会長だった。

 ここから巻き返そうと練習を続けていた今年3月のことだった。ストレッチを終えると、トレーナーから「みんな集まってくれ」と声がかかった。

「これこれこうでジムがなくなると。会長が高齢で、会長の奥さんも体調が悪いと聞いていたので、あと5年くらいかな、なんて思っていたんですけど……。その日は力が抜けて練習をしないで帰りました」

 ジムがなくなるということは、住んでいる寮もなくなるということだ。ジムの後援会に用意してもらったスーパーの仕事はどうなるのか。生活そのものが崩壊しかねない状況だったが、1日休んだだけでジムには通い続けた。

 そんな溜田に試合の話が巡ってくる。8月22日、後楽園ホール。24歳未満を対象とした新設の日本ユース王座決定戦である。モヤモヤしていた気持ちにムチが入った。

「初めてのタイトルですけど、自分にとってはヨネクラ最後の試合というのが大きいです。これで負けたら、偉大な歴史を築いてきた先輩たちに顔向けできないですから」

「ヨネクライズムは継承しますよ。溜田を王者に」

 期せずしてヨネクラ最後の戦士となった溜田は、8月の試合後、大橋ジムに移籍することが決まった。

「ヨネクラジム最後の遺伝子ですから、それはうちで引き受けなくちゃいけないでしょう。ヨネクライズムは継承しますよ。溜田をチャンピオンにします」(大橋会長)

 傾きかけたヨネクラジムとは対照的に、大橋ジムは今をときめく世界王者の井上尚弥を筆頭に、元王者やチャンピオン予備軍がずらりと並ぶ。自ずと練習は厳しく、レベルは高い。溜田が初めて大橋ジムでスパーリングをした日、会長とトレーナーから指示されたのはジャブの反復練習だった。

「けっこういいスパーリングかなと思ったんですけど、会長とトレーナーの松本好二さん(ヨネクラ出身)に『基本がなってない』と言われてしまいました。いまは、ボクシングを習った人が最初に教わるジャブの練習を繰り返しています」

 名門ジムは姿を消すが、その魂が死ぬことはない。ヨネクラ最後の遺伝子、溜田がヨネクラOBのサポートを受け“37人目”のチャンピオンを目指す。

文=渋谷淳

photograph by BOXING BEAT