『フランス・フットボール』誌では、6月20日発売号からEURO2016の1年後の特集として「EURO2016のヒーローのその後の人生」という4号連続企画を掲載している。

 ヒーローといいながらその人選はシブく、第1回がアイスランド戦を実況し続けた同国の(元選手にして)アナウンサーであるグドムンドル・ベネディクトソン、第2回がベルギー人のコメディアンで大会中はマスコットの着ぐるみに身を包んでいたミシェル・フレナ、第3回はロシア人フーリガンとのマルセイユでの騒動に巻き込まれたふたりのイングランド人、アンドリュー・バッシュとスチュワート・グレイ。日本のメディアでは、絶対に取りあげられないような人たちである。

 最終回の第4回(7月11日発売号)は、多少知名度が上がって決勝の主審を務めたマーク・クラッテンバーグが選ばれている。自他ともに認める世界最優秀レフリーでありながら、判定と人間的評価のどちらでも賛否両論が起こり、評価が定まらないクラッテンバーグとは、いったいどんな人物であるのか。

 来年のワールドカップでは、決勝審判の栄誉に浴する可能性が高いにもかかわらず、どうして彼は保障された輝かしいキャリアに興味を示さずサウジアラビア行きを決めたのか? パトリック・ソウデン記者が真相に迫る。

監修:田村修一

英国のプロ審判協会の表彰式に欠けていた、1人の男。

 EURO2016の決勝レフリーは、このシーズン終了直前にサウジアラビアに好条件で移っていった。いったい彼の何がイングランドでは批判の的になっているのか――。

 先日、イングランドのプロ審判協会は、栄誉を称えるに値する幾人かを表彰した。その中にはサイモン・ベックとジェイク・コリン、アントニー・テイラー、アンドレ・マリナーも入っていた。ベックとコリンは昨年のチャンピオンズリーグ決勝、アトレティコ・マドリー対レアル・マドリー戦とフランス対ポルトガルのEURO2016決勝でアシスタントレフリーを務め、残るふたりはそれぞれ予備審判に名前を連ねていた。ヨーロッパでも最高レベルのユニットである。

 だが、表彰者の中に、ふたつの決勝の影の主役であったマーク・クラッテンバーグ主審の名前が欠けていた。

 何か見落としがあったのか?

 そうではない――チェアマンであるマーク・リレイが、クラッテンバーグはもはや協会には所属していないという理由で、意図的に表彰リストから外したのだった。

サウジ行きで年収は一気に4倍になった!

 4月29日のウェストブロムウィッチ対レスター戦が、クラッテンバーグにとってプレミアリーグ最後の試合となった。同リーグで主審を292試合務めた実績を残し、クラッテンバーグはサウジアラビアでのレフリー養成という新たな使命のために、中東へと旅立ったのだった。

 ちなみにクラッテンバーグの前任者として、サウジでその仕事にあたっていたのは同じイングランド人のハワード・ウェッブ。今はアメリカ合衆国で同様の職務に就いている。

 契約条件は申し分ない。イギリスのメディアによれば、42歳のクラッテンバーグが受け取る年俸は税抜きで50万ポンド(約7200万円)以上という。

 イングランドで彼が得ていた額の4倍である。

「彼ならばロシアW杯にも行けたのだが……」

 クラッテンバーグの決断自体は驚くに当たらない。

 昨年末にドバイで行われた世界最優秀レフリーの表彰式で、彼は自らの意志をハッキリと表明している。だが行き先は、中国スーパーリーグになるだろうというのが大方の予想だった。

「具体的なオファーはまだ何もないが、来た場合には真剣に考慮する。プレミアリーグとの契約は残っているが、長いスパンで自分のキャリアを考えたい」と、そのときに語ったのだった。

 サウジ行きの先輩であるウェッブが事情を説明する。

「私がサウジを離れてアメリカに行くと知ったとき、マークは私にサウジでのチャレンジに魅力を感じていると気持ちを打ち明けた」

 決断への批判はないが、タイミングに関してウェッブは懐疑的である。

「彼ならば次のロシアワールドカップにも行けたのに、その機会は失われてしまった。恐らく彼は、レフリーとしてこれ以上はない充実したときを過ごして、別のことをやってみたくなったのだろう」

1年間で、FA杯、CL、EUROの各決勝で笛を吹いた。

 クラッテンバーグは、2016年のグランドスラム(FAカップ決勝とチャンピオンズリーグ決勝、EURO決勝)に加え、2012年ロンドン五輪決勝でも笛を吹いた。ワールドカップへのこだわりはもはやないのかも知れない。

 口さがない人たちは、イングランドがワールドカップ決勝に進む可能性がほとんどないのだから、彼が決勝の笛を吹くチャンスは大いにあるのにと皮肉っているが……。

 ウェッブのように、クラッテンバーグの決断に理解を示しているのは例外的である。

 また人間性だけでなく、レフリーとしての資質にもときに疑問が向けられる。

 例えばポルトガルサポーターは、EURO決勝でクリスティアーノ・ロナウドを負傷退場に追いやったディミトリ・パイエに対して、クラッテンバーグが何の処罰も下さなかったことに憤りを感じているし、逆にフランスサポーターは、ローラン・コシェルニーに不必要なイエローカードを出したために、エデルの得点場面でコシェルニーが思い切った守備ができなかったと考えている。

 同様にエバートンのサポーターは、2007年のリバプールとのダービーで、ディフェンダーのトニー・ヒバート(エバートン)にやはり不適切な警告を与え、その後スティーブン・ジェラードとほんのちょっと口論したために累積退場処分を科したことを、今も繰り返し語っている。その後、クラッテンバーグはエバートンのすべての試合から外されている。

疑惑の判定だけでなく、資格停止処分の汚点もある。

 2004年8月にクラッテンバーグは、29歳の若さでプレミアリーグ最年少レフリーの記録を塗り替えてデビューを果たした。

 まさにエリート中のエリートであるが、彼には疑惑の判定以外にも履歴書に幾つかの汚点がある。

 その最大のものが、2008〜09年にかけての資格停止処分である。

 本業である電気店が倒産し、7万ユーロの負債を背負ってしまったのが遠因だが、当時、彼には「チャリティーシールド」(現・FAコミュニティ・シールド/プレミアのスーパーカップ)の主審が割り当てられていた。その重要な仕事が、公表の最終段階で取り消されたうえ、審議の結果8カ月の資格停止処分が科せられたのである。

協会への不信感が募る一方、派手な生活は批判された。

 めったにインタビューを受けない彼が、この記事の数カ月前におこなわれた数少ないインタビューの中でそのことを語っている。

「人生で最も辛い時期だった。消化するには多くの時間がかかった。というのも自分が本当に以前の状態に戻りたいのか確信が持てなかったからで、レフリーへの情熱を失ってしまった」

 彼自身の審判協会への不信感は拭い去られることはなく、その能力の高さを認められながらも、彼の物欲の強さや奔放な行動への世間からの嫌悪感も隠されなかった。

 “クラッツ”という自らのニックネームにちなんだ「C19TTS(クラッツと発音する)」と表記されたナンバープレートをつけた高級車を乗り回し、ファッションコード違反を犯してエド・シーランのコンサートに出かけたり、さらにはチャンピオンズリーグやEURO2016のロゴのタトゥーを両腕に刻印するなど……批判のネタは尽きない。

「私の行動が傲慢だと見なしている人たちが」

 他方でクラッテンバーグの側にも、2012年にチェルシーとオビ・ミケルにまつわる人種差別発言が問題になったときに、審判協会から守られなかったという思いがあった。

 彼を擁護したのは地元イングランドの協会ではなく、当時UEFA審判委員長のピエルルイジ・コリーナであった。マーチン・アトキンソンを推していたイングランドの審判協会に彼が圧力をかけて、クラッテンバーグのEURO2016への参加を実現させたのだった。

 クラッテンバーグはいう。

「私の行動が傲慢だと見なしている人たちがいるのは知っている。しかしピッチの上では、日常生活と同じように選手と接することはできない。私はプロフェッショナルであり、自分のパーソナリティをピッチ上で見せるのは、選手がそれを望んでいるからだ。彼らは規則を機械的に押し付けるロボットを求めてはいない。試合はスペクタクルであり、レフリーはたとえその役割の範疇を越えても、重要な役割を担いうる存在だ」

ついに、煩い英メディアから自由になったのか……。

 冒頭のプロ審判協会の表彰の件で論争が新展開を見せたのは、イングランドで最も優れた記者のひとりであるヘンリー・ウィンターが、『ザ・タイムズ』紙に以下のような署名原稿を書いたときだった。

「今日におけるイングランドサッカー最大の成功者は、ガリー・ケーヒルでもジョーダン・ヘンダーソンでもアダム・ララーナでもジェイムス・ミルナーでもない。デル・アリでもダニー・ローズでもハリー・ケインでもない。最優秀選手のジェイミー・バーディでもない。

 マーク・クラッテンバーグだ。

 彼こそ年間最優秀レフリーであり、表彰の舞台に彼が出席しないのは大いなる恥だ」

 だが、黒子役のレフリーをスター扱いしたことで、ウィンターは激しく批判された。

 サウジアラビアでは、クラッテンバーグがそうした議論の対象になることはあり得ない。

 雑音に煩わされることなく、自らの欲望に忠実に生きることができるのだろう。

文=パトリック・ソウデン

photograph by Pierre Lahalle