「俺は変わらない」

 2008年12月、ジャマイカでボルトは何度もこう口にした。

 北京五輪で3冠を達成した後、大きな変化の波に飲まれていたボルトは、変わることを頑なに拒否しているようにも見えた。

「周囲が変わっても、俺は絶対に変わらない」

 自分自身に言い聞かせるかのように、何度もつぶやいていた。

 それから9年。

 五輪3連覇、短距離3種目で世界記録を持つボルトの生活が変わらないはずはなかった。

 練習拠点があるジャマイカの首都キングストンにある西インド大学は、それまで雑草の生い茂った野原に白線を引いただけのトラックしかなかったが、その横に青のサーフェスがひかれたトラックができた。

 それまでは自由に出入りできたものの、ボルトを追いかけて勝手に入りこむメディア対策もあり、周囲には高いフェンスと警備員が配置された。ぼろぼろだった国立競技場も張り替えられ、ジャマイカ陸連のオフィスも新しくなった。

今大会のボルトのスパイクは、高校のスクールカラー

 ジャマイカは『スプリンター生産工場』と呼ばれ、世界中から多くのメディアが訪れ、ジャマイカの人たちはジャマイカ選手のことを誇らしげに我々に話してくれた。

 ボルト効果で様々なものが変わった。

 先日ロンドンで、ボルトの現役最後のレース前記者会見が行われた。

 320人ものメディアが訪れた場で、ボルトが今大会で履くスパイクが紹介されたが、そこにボルトの変わらない部分を強く見ることができた。

 そのスパイクは、ボルトの原点である故郷ウィリアムニブ高校のスクールカラーである緑と紫、そしてボルトのシンボルカラーのゴールドで彩られていた。

一番の思い出は、地元開催だった世界ジュニア。

 今から15年前に緑と紫のユニフォームを着て、独特のフォームで国立競技場を走るボルトの動画をサイトで見ることができる。背がひょろっと高く、痩せて筋肉もほとんどついていない。腕をやみくもに振ってがむしゃらに走る姿には、今のボルトとかぶる部分も多い。

「一番思い出に残っているレースは、2002年の地元開催の世界ジュニア。すごく緊張したけれど、たくさんの観衆の前で勝てて言葉にならないほどうれしかった」

 北京五輪でも不滅の世界記録を打ち立てたベルリン世界陸上でもなく、ジャマイカの世界ジュニアを挙げたことに、ボルトの強いジャマイカ愛、そして彼の原点を感じた人は多かったのではないだろうか。

 世界ジュニアでの優勝後、ボルトは地元トレローニーから首都キングストンに拠点を移したが、親元を離れた生活はつらく、週末になるとバスに乗って実家に帰っていたという。

「週末が終わってキングストンに帰るときはいつも悲しかった」

 帰る故郷、温かく迎えてくれる人々がいるということが10代のボルトには大きな支えだった。

自分が手に入れたものを地元に還元できる選手は……。

 ボルトは北京五輪の後から、地元の学校にコンピュータをはじめ様々なものを寄付したり、故郷の村にインターネットを繋げるなど地元のために力を尽くしてきた。「有名になって、余裕が出たら、それを地域に還元しないといけないよ」という父ウェスリーさんの教えも影響している。

 富を得たものが還元するのは当然、と思う人もいるかもしれないが、そういう行動をさらりとできる選手は多くない。

 ある選手の才能を見込んで自身がコーチを務める高校に転校させ、自宅に住まわせ、食事や陸上の道具すべてを世話していたコーチが、淋しそうに話してくれたことがある。

「プロ契約をした夜に荷物をまとめて出て行った。朝、気付いたら部屋が空っぽになっていて、その後一切音沙汰もない。同じキングストンにいるのに……」

ボルトは変わった、しかし故郷への愛は消えていない。

 自分がしてあげたことに何か返してほしい、と言っているわけではない。学校に顔を出して、メダルを見せたり、陸上部の後輩を励ましてくれたら……と、コーチはそんなささやかな願いをもっているが、その選手からは何のオファーもないという。しかし、この選手が特別なわけではなく、ジャマイカでは似たような話を多く聞く。成功した瞬間、過去も恩義も捨ててしまう選手の話を。

 世界を熱狂させた北京五輪から9年、ボルトは変わった。しかし変わらずに故郷や母校を愛する気持ちを持つボルトも確かに存在する。

 ボルトはロンドンの地で選手人生の幕を閉じる。8月5日に100m、12日の400mリレーが最後になる。故郷への思いを胸に、どんな走りをするのか、最後にどんなパフォーマンスを見せるのか楽しみにしたい。

文=及川彩子

photograph by AFLO