日本復帰した昨季。15勝で最多勝を獲得すると、
'17年は開幕戦のマウンドを託され、8回112球、
5安打1失点に抑える好投で白星を挙げた。
いまだ衰えを見せない左腕の内面に迫る。
Number926号(4月26日発売)の記事を全文転載します。

 和田毅がまだ20代の半ばだった頃。

「地球って、なぜ回るのかなとか考えたりすることありませんか? 自転とか公転とかいう意味合いではなくて」と突然問いかけてきた。まるで哲学者の物言い。不意を食って二の句が継げない筆者を見ながら、若き日の和田はフフフッと笑っていた。

「えー、それ本当に僕でしたか? スミマセン、覚えてないです。そんなことを言っていたなんて、なんかヤな奴ですね(笑)」

 いや嫌味どころか、逆に和田の投手として、人間としての凄みを感じた。だから、約10年が経った今でも忘れられないのだ。

 疑問を持つから、常に考える。

 考えることは努力や成長の第一歩だ。

「一眼レフカメラの購入を考えていて」と“取材”。

 最近もふとした日常でその顔を覗かせる。インタビューの日、グラウンドの片隅でポートレートの撮影を終えると、和田はカメラマンへ“取材”を始めていた。

「それ、どこのメーカーですか? じつは一眼レフカメラの購入を考えていて。さっき2台を使い分けていたじゃないですか。撮られながら、どう写り方が違うのかな、光の具合かな、そもそも変える理由は何だろう、と気になっていたんです」

 写れば何でもいいわけではない。質に拘る。衝動買いも好まない。吟味する。

 和田は「思考派」のピッチャーである。

 一番の武器はストレートだと自負するが、球速は140km前後だ。速球派とは呼べない。しかし技巧派でもない。

 考えを巡らす。準備にも余念がない。

 だから和田は、今でも松坂世代のトッププレーヤーであり続けられる。

メジャー帰りの時点で懐疑的な向きは少なくなかった。

 昨年は見事な復活劇だった。

 5年ぶりに米球界から復帰したシーズンで、いきなり15勝をマークして最多勝を獲得。1人で貯金を10個も作って最高勝率と、2つの投手タイトルに輝いた。

 メジャーでは成功をつかめなかった。'12年の渡米直後に左肘故障が発覚し、トミー・ジョン手術を受けた。オリオールズでは出番がなく、カブスに活躍の場を求めるも居場所はほとんどなかった。4年間で5勝のみ。肩に異常を訴えた時期もあった。果たして、日本球界に帰ってきたところで、どうなるものかという懐疑的な目も、当初は少なくなかった。

 しかし、和田毅は、和田毅のままだった。

〈変わらないね〉

 ホークスに復帰後の和田を見た人は必ずそう表現した。フォームもスタイルもそのまま。シーズン前には「和田はやる」という声の方がすでに大きかった。

「昔だったら真っ直ぐ一本で押していましたが……」

 しかし、変わらないという言葉に、和田は少なからず抵抗した。

「変わっていると思いますよ。昔だったら真っ直ぐ一本でゴリゴリ押していましたが、今はツーシームやカットボールを上手く使って球数を減らしていこうと思っています」

 ボールを動かすのはアメリカで覚えてきたスタイルだ。メジャーの強打者はぎりぎりまで引きつけて打球を飛ばしに来る。芯を外す球種がなければ通用しないと思い習得した。日本復帰後も武器としてそのまま使用したが、今年はさらに右打者の内角へのツーシームを新たに投げ始めた。また、今季に向けてはカーブも改良した。「浮き上がってピュッと落ちる」軌道になった。

 和田は言葉を継ぐ。

「僕の一番の武器はストレート。だけど、いつか空振りが取れなくなる時が来ると覚悟をしています。いつ、そうなってもいいように、僕は準備をしているんです」

 予防線を張る。自信も手応えも確かにあるうちから準備にとりかかる。

「実際にそうなってしまった時に慌てても遅い。まあなるべく、そんな日が来ないよう、もしくは1日でも遅らせるために、若い時から先のことをずっと考えながら練習を積んできたつもりです。だからスタイルはなるべく変えたくないと思いながらやってきました。その意味では僕は変わってないのかな。いや、変わっている気もするし。うーん、分からないですね。でも、分からないということは、自分の根本は昔から変わっていないということかもしれません」

「僕らの年代は大輔と渚が別格で、憧れだった」

 かつては同世代の「その他大勢」の1人に過ぎなかった。

 日本中が熱狂した'98年夏の甲子園。島根・浜田のエースとして全国ベスト8まで勝ち進んでいる。松坂大輔と直接投げ合うことはなかったが、あの伝説的大会で名を残した。

「いや、僕なんて全然です。僕らの年代は大輔と(新垣)渚が別格というか、ただの憧れの存在でした。150km投げるピッチャーなんてあの頃はいなかったじゃないですか。140ちょっと出たらプロ級と騒がれたのが、一気に150kmですからね。彼らのような人たちがプロに行くんだなと、ただ眺めるだけでした」

 松坂は雲の上の存在であり、自身も将来のプロ入りなど想像すらしていなかった。

僕は今でも走ることが一番大切だと思っています。

 しかし、早稲田大学に入学してわずか数カ月でまるで別人のように変貌を果たす。

「急にスピードが上がった。常時125km前後だったのが、140kmを投げられるようになったんです」

 自らフォームを壊して、一から作りなおしたのが奏功した。参考にしたのは松坂だった。利き腕は違ったが、鏡で反転させた自分と見比べるのにはちょうど良かった。

「ヒントになったのはグラブ側の手の使い方でした。軸足でためてから体重移動する際にぐっと引く。前に出る体を、グラブ側の腕で止めるんです」

 カベを作り、そこに思い切って体重をぶつけに行く。強い回転が生まれたのだ。

「あとは下半身を使って投げること。大学時代はそればかり考えていました」

 だから和田は走った。とことん、走った。

「僕が変わらずにいられるのは若い時から走ることを大事にしてきたから。現在ではただ走るよりもトレーニングコーチが組むメニューやウエイトトレーニングなどを重視する考え方もあるみたいですが、僕は今でも走ることが一番大切だと思っています。だから年齢を重ねてもやれている。当然、もう若い時ほど走れないけど、それでも今だって若い選手に負けない自信はありますよ。今の若手の練習量は甘いです。僕の方が彼らよりもはるかにシンドイことをやってきましたから」

ポール間走40本、僕が走るから後輩も……(笑)。

 その原点は、大学2年生のゴールデンウィークだった。大学の春季リーグ中にもかかわらず、朝9時から夕方5時まで走りっ放しのメニューを組まれた。

「3日間、ボールを一度も触らずに走るだけ。あれが人生イチでした。メニューは覚えていますよ。両翼ポール間往復を20本2セット、片道20本が2セット、50mと30mと20mもそれぞれ20本ずつ。ダッシュ系ばかりでした」

 大学4年生の頃には、ポール間走40本が当たり前になっていた。

「少しは慣れても、しんどさは変わらない。25本目から30本目あたりは決まって記憶がなかった。ただ、僕が走るから下級生もやらされていた。ああ可哀想に、と思ってました(笑)」

通算4度目の開幕投手は、本当の意味で任せられた。

 和田が4年生の時、1年生でこのメニューを「やらされて」いたのが現在もトヨタ自動車でプレーする佐竹功年だった。

「たまに連絡がありますけど、彼も『ミスター社会人』ですよね。去年は都市対抗で優勝したし。最初は全然ついていけなかったけど、今の自分の糧になっていますと言ってくれた時は嬉しかったですね」

 今年、プロ15年目。

 3月31日、開幕戦のマウンドを6年ぶりに託され、今季初勝利を挙げた。

「開幕投手は4度目でしたが、過去はいずれも正式というよりイレギュラー的な感じでした。'05年はカズミ(斉藤和巳)さんに決まっていたのですが、肩の違和感で代役。'09年はスギ(杉内俊哉)だったと思うんですが、WBCの代表に自分が落選して、スギがそのまま選ばれたから自分に回ってきた。'11年は震災で開幕がズレて、日程の関係で僕になった。本当の意味で『任せたぞ』と言っていただいたのは初めてでした」

48歳……さすがにムリと思うけど、近づけるように。

 工藤公康監督から告げられたのは2月21日。36歳の誕生日という粋な計らいだった。

「もうオッサンですよ。白髪も増えてきた。目立たないように抜いてます(笑)。ただ、この年になると早生まれは得な気分ですね」

 30代半ばを迎え、いまどんな思いを抱くのか。

「プロ野球選手になって2度目の年男か。次は48歳……。さすがにムリでしょ(笑)。だけど、それに近づけるように体のケアもしっかりとやっていきたいです」

 年齢を重ねるのは人の常。この世界では、ベテランは肉体の衰えを、磨き続けた技術でカバーする。その水準がいつしか逆転したときに技巧派へ転身せざるを得なくなる。

 しかし、和田は力と技の交差点を迎えていない。変わらないという矜持。まだしばらく、その姿のままを見せてほしい。

(Number926号『和田毅 変わらないことの難しさ。』より)

文=田尻耕太郎

photograph by Tadashi Shirasawa