それは異様な光景だった。

 世界の注目を集めた男子100m。

 誰もがウサイン・ボルトが勝ち、引退の花道をロンドンで飾ることを望んだ。彼が負けるなんて、「想定」にはなかった。

 ただし、今季のボルトの走りを見ていれば、勝つことが簡単ではないことは想像がついた。大会前ベストタイムは9秒95。加えて得意とする200mに出場しないとなると、好調とは程遠いことが想像できる。

 人間は、見たいものしか見ない。ロンドンの人々は、好みの「ストーリー」を用意して待っていた。

 そこに闖入者が現れた。

 ジャスティン・ガトリンだ(しかもこの日は裸の男性、「ストリーキング」がトラックに乱入していた)。

悪意の「ウサイン・ボルト! ウサイン・ボルト!」

 100mのフィニッシュ・ラインを先頭で駆け抜け、ガトリンにしてみれば、長年、ターゲットとしてきたボルトに勝ち、人生最高の瞬間を迎えていたに違いない。

 ガトリンはスタジアムのモニターで着順を確認し、自分が勝者だと分かると、人差し指を口に当て、「シーッ」という仕草をして、

「俺が世界を黙らせた」

と思えるポーズをとった。

 その時、スタンドから湧いたのは盛大なブーイングだった。長年の夢がかなったガトリンには悪意が向けられ、ロンドン・スタジアムの観客は、

「ウサイン・ボルト! ウサイン・ボルト!」

と連呼し始めたのである。

予選、準決勝、決勝とブーイング量は増していった。

 負けたとはいえ、スタジアムの主役はボルトだった。ボルトは、予め定められていたかのようにスタジアムを1周し始め、本当は「ライトニング・ボルト」のポーズを取るはずだったのだろうが、封印せざるを得なかった。

 その間、一瞬だけだったが、ガトリンの周りにカメラマンの姿はひとりとしていなくなり、観客も勝者である彼のことを完全に頭の中から排除したような瞬間があった。

 ガトリンは、トラックの中で孤独だった。

 世界選手権の“王者”だというのに。

 ロンドンのファンは、予選の段階からガトリンに対して手厳しかった。それはちょっと、異様なほどだった。

 ガトリンが紹介されると、観客は盛大なブーイングを浴びせた。その音量はボルテージが上がる準決勝、決勝と大きくなっていった。

ドーピング、ボルトのレーンへの唾吐きかけ……。

 なぜ、これほどまでにガトリンは嫌われるのか。

 イギリス人は、こう切って捨てる。

 “He is a doper.”

 乱暴に翻訳するならば、こうなる。

「ヤツはドーピング野郎だからな」

 事実、ガトリンは2001年と2006年に二度も禁止薬物使用違反で出場停止処分を受けている。

 しかも2006年の時には、永久資格停止処分が下される見込みだったが、米国アンチ・ドーピング機関への調査協力を約束したことで、8年に短縮された経緯がある(2008年になって処分は4年に短縮された)。

 復帰後も、ガトリンは挑発的な態度を取っていたことが欧米では知られていて、『ウサイン・ボルト自伝』(集英社インターナショナル)では、復帰してきたガトリンがボルトと直接対決したとき、ガトリンはなんとボルトのレーンに唾を吐きかけた。

 ボルトはそれを見て笑ってしまった……と述懐しているが、こうした細かいエピソードまで含め、ガトリンは「ヒール」(悪役)の役回りにならざるを得ない。

 こんなことなら、丁重にもてなしてくれる日本への遠征の方が、はるかに気持ちがいいだろう。スポーツ・バラエティに出演し、9秒台の男としてもてはやされる。

 日本はドーピングとは縁遠い国だけに、寛容なのかもしれない――。そう思ってしまう。

 ロンドンの観衆にとって、ガトリンは「おもてなし」の範疇には当てはまらない選手、いや人間なのだ。

短距離界に再び「アメリカの時代」が到来しつつある。

 たしかにイギリスのメディアを見ていると、ドーピングに対しても厳しい倫理観を持っている(表現方法は様々で、とんでもないのもある)。“Doper”に対しては冷たく、それが今回の辛辣なブーイングの背景にある。

 その意味で、クリーンなボルトは「善」を代表する存在だったのである。

 それにしても、今回の世界選手権では、この10年ほどジャマイカが支配してきたスプリント界の構図が、大きく変わろうとしているという印象を受ける。

 男子100mでアメリカがワンツー、女子100mでもアメリカのトリ・ボウイが見事なフィニッシュで金メダル(これには鳥肌が立った)。

 再び「アメリカの時代」が到来したかのように感じる(サニブラウンは、秋からそのアメリカの大学で学ぶわけだ)。

 いま、ロンドンで時代が動いている。

 週末に行われる4×100mリレーがどうなるか。

 ロンドンのファンは、地元イギリスだけでなく、ジャマイカにも熱い声援をおくるはずだ。

 ガトリン、そして「トランプのアメリカ」はだいぶ、嫌われている。

文=生島淳

photograph by AFLO